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WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

「やった後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」という謎の名言について

何かに迷ってる人に向けて、じゃあこれをした方がイイヨ、ということが伝えたいのではないことを、まず伝えておく。

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「やった後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」という名言じみた言葉をよく耳にする。

キャッチーな言葉だし、実用的な言葉だと思うけれど、

今回、この言葉の「根拠」を見つけた気分になったので、以下に書き連ねる。

 

1, ABC型決断について

2, 決断の不可逆性について

3, ABA型決断について

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【ABC型決断について】

ある友人が、Aという決断をすべきかBという決断をすべきか迷っていた。Aという決断をすればもちろんBという決断をしたときの利益を享受できず、Bという決断をすればもちろんAという決断をしたときの利益を享受できない状況だ。 

また、双方の不利益についても同様である。

 

ボク自身、

「自分が本当にやりたいことを選べばいい」という助言には嫌気が差すほど晒されてきた。しかし、「自分が本当にやりたいこと」が自分で分かるようなら、あんたなんかに相談せずに決断してますし、「自分が本当にやりたいことがどっちなのか」が分からないから迷っているのであって。

「自分が本当にやりたいことを選べばいい」という助言はいかに馬鹿げてる言葉かと思う。

こういう言葉をシレっと言ってしまうということは、助言者が相談者の立場に立ってない実情をドヤ顔で露呈しているようなものだ。

 

 

その友人も同様に「自分が本当に望む決断をすればいいと思っている」のだが、「どっちも良いと思うし、どっちも大変だと思う」ので、「果たして自分が本当にどちらをやりたいのか自分でもわからない」ということを、言っていた。

 

これはもっともな迷いだと思うし、無理もないと思う。

どちらがどれほど自分にとって魅力的で、自分が本当に望んでいるのか、それを定量的に評価できて、それを比較できればどんなに簡単かと思う。

それが出来ないから、とても迷う。

 

これはAも未知で、Bも未知だから起こる現象だと思っていて、未知なものと未知なものの比較はできない。

両方とも未知だと、AよりはBの方が良さそうだ、BよりもAの方が良さそうだ、という漠然とした予想すらできない。

 

 

 

だから、

Bを選びたいかどうかは置いといて、比較基準を手に入れるために、Bを選ぶべきだと思うのだ。

 

AとBと、どちらが良かったのか、どちらでもないCという状況にいて判断するのは難しい。だから、

どちらでもない状況をいち早く打破して、Bという状況に来て初めてAを評価してみればよい。

 

そこにあって「未だAに未練がある」のであれば、再チャレンジをすればいい。

そこにあって「住めば都」であるのであれば、そこに安住すればいい。

 

どちらかの選択肢を選んだからといって、選択の自由が奪われたワケでもないし、

変更・改善の行動の自由が奪われたワケでもなかろう。

 

つまり、

「本当に自分がどちらがやりたかったのか」「あぶり出す」ためだけに、

AでもBでもよい、どちらかを選択してしまうという行動の利益は、十分にあると思うのだ。

 

「本当に自分がやりたかったことは何なのかを知る」ということは、いかなる状況的利益にも勝る知見だと思っている。

逆に、「本当に自分がやりたかったことは何なのかを知れない」からこそ、迷って悩んでいる人の多さが、それを物語っているとも思う。

 

「本当に自分がどちらがやりたかったこのか」を「あぶり出す」ことが、Aを選ぶかBを選ぶかよりも重要なのだ(というのは言い過ぎか)。

 

 

【決断の不可逆性について】

「たしかに、Cという状況においては『AとB、自分が本当にやりたかったのはどちらかあぶり出すためにBを選んでしまう』という決断が効果的なのは理解したよ。でも、仮にそれによって『自分が本当にやりたかったのはどちらだったのか』が判明したとしても、そして『本当に自分がやりたかったことはAだった』と判明したとしても、もう時既に遅し、Aという選択には戻れないじゃないか。その不利益をそこんとこ君はどう担保するつもりなんだい?」

 

という突っ込みを頂く。至極当然な突っ込み。

 

結論からいうと、その不利益を担保する気は更々無い。

些か強者の理論になってしまうのは残念だが、

「本当に自分がやりたかったこと」を「後悔とともに判明させた」人間は、

強い。

 

ボクの別の友人が昔ボクに言った言葉で今でも覚えているのは、

「やりたいけどやれなかったことなんて一つも無い」

「あるのは、『そこまでするならやりたくもなかったこと』と」

「『そこまでしてもやりたかったこと』だけなんだよ」

という言葉だ。

 

これは意思力の強いひとが言うセリフであって、

聞かされるほうにとってもちょっと( ´・ω・)ショボン

ってなるのだが、それでも痛いところ本質的なところを突いていると思う。

 

前述の彼の突っ込みの通り、確かに決断は不可逆であり、

一度した決断は取り戻せないのだが、

大事なのはそこから何を学び何を得て、どう強くなって、

これから何をしていくのか、これからどのような選択をしていくのか、

これからにどう活きるのか、そっちの方が重要なんでしょう、と。

 

Bという決断によって、彼が何を知り、どのくらい強くなるのか知らないが、

ボクは、場合によっては、そこから「どうしてもA」なら、Aに行くことも可能だと思っている。

相当の強さが必要ではあるが。

 

そうでなかったとしても、今後同じような選択を迫られたときに、

今度は迷わない、

今度は自分が本当にやりたいことを以て決断ができる人間になっているのではないかと。

 

それはとても重要なことなんじゃないかしら、と。

 

だから、いかなる失敗も不可逆ではあるけれど、そこで得られた知見もまた、不可逆であって、選択はまた来ることがあるけれど、そこで「かつての知見」が蓄積しているか否かの方が、フェータルでクリティカルな事実なのかもしれない。

 

彼の突っ込みにおける、

「『本当に自分がやりたかったことはAだった』と判明したとしても、もう時既に遅し、Aという選択には戻れないじゃないか」

というくだりの、

『本当に自分がやりたかっとことはAだった』と判明した

ことは、Aに戻れるかどうかよりも、

彼の利益になるのではないだろうか、などと。

 

 

【ABA型決断について】

「とはいっても君ね、僕が直面している問題は「Cにあり、AかBか」ではなくて、「このままAでいくか、それともBに変更するか」の二択なので、ちょっと状況は違うくないかい?既にAは知ってるんだもの」

と彼は反論する。

 

そう思う。

世の中、「AもBも知らないCという状況にあって、AかBかを選ばなければならないこと」なんてそう多くは無い。

簡単に思いつくのは、

「高校生にあって、大学を選ぶとき」や

「大学生にあって、就職企業を選ぶとき」である。

 

そんなこと以外は、たいてい『ABA型決断』なのだ。

Aという状況にあって、Aのままでいくか、Bをするか、という決断なのだ。

結婚、転職、大きな買い物など。

世の中では『ABC型決断』のように、

上記の理屈で簡単に済ませられるものなんて少ないんだ・・・・!!

 

 

という指摘がごもっともだからこそ、掲題の問題が出てくる。

 

「やった後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」

 

 

 

 単純に冷静に考えれば、ABA型決断もABC型決断と構造的に

何ら

変わらないことはすぐに分かる。そう、見た目の問題だけなのだ。

実はABA型決断も、

「何もしない」という選択肢を選択肢としてカウントするなら、

「A’BA」の三点構造なのだ。

 

であるからこそ、先のABC型決断の方法論にのっとって行動すればいいだろう。

つまり

「自分が本当にやりたかったのはどちらなのか」を「あぶり出すため」に

どちらかをさっさと選択してしまう、という行動だ。

そうすることで判断軸を手に入れて、自分のやりたいことをあぶり出し、そこで得られた知見でその後をより良くしていけばよい。

 

.... と、ここまで来てやっとABA型決断とABC型決断の差が生じる。

 

「Aを選択することはできない」のだ。

 

なぜなら「既にAにいるから」だ。

 

物事は実はいつでも単純にABC型決断なのだが、

この差異があるだけで、ABC型決断でとるべき行動がとれないように見える。

 

しかしABC型決断の行動での方法論をここ(ABA型決断)で取ろうとするならば、

Bを選ぶしかなくなる。

 

ABC型で得られる知見を、ここABA型決断でも得ようと思うのなら、

Bを選ぶべきなのだ。

だからこそ、謎の名言

「やった後悔よりもやらなかった後悔の方が大きい」というような

「やらなかった後悔よりもやった後悔をとるべき」というような謎の名言が生まれるのではなかろうか。

 

 

 

 

「・・・と、いうようなことをツラツラ言いましたけど、ボクは別にどっちを選択してくれてもいいと思うよ。ボクが何かを言ったから君の選択が変わるのでもないだろうし。君がどっちを選択してもボクは見てて楽しいし。今回のようにボク自身の整理にもなるし。では、続報を待ってる」

 というようなことを言って、ボクは電話を切ったのだった。

 

【雑感】

社会人になってちょうど一ヶ月が経とうとしている。様々な知らない人と会う機会が増え、自分のことを説明するために喋る機会が増え、自分がどう思うか口に出さなければいけない機会が増えた。あまり親しくない人と「喋る」というのは本来嫌いで、なぜかというと「喋る」というのは音としてすぐ自分を離れていくので、自分による検閲が効かないうえに、反省して取り消して謝罪することもできない。だから、相手がどう感じるか、嫌な気分にならないか、相手の行動をどう制約してしまうのかの可能性を吟味する時間がない。相手にしても、ボクの発言がどういう意図だったのか、あらためて見返して理解しようとする余地を確保できない。

最近「喋り」すぎだな、と思う。

とても観念的で、人それぞれな部分なのにも関わらず、ボクがどう思うかどう感じるかを薄っぺらにペラペラと「喋る」ことが多すぎる。なるべく、「喋る」代わりに「書き」たいと思う。時間を確保するのは大変だけれど、「喋る」くらいなら「書く」ほうが、人に迷惑をかけず、自分のために考えを発酵する時間を与えられるからだ。

 

 

 

 

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