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WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

【雑文】ぼくとししおどしとお水と技巧

 考えを晒すようなものを書きたい多くの場合は、それは思考のオーバーフローに他ならないと思っている。感情のオーバーフローの場合もあると思う。何かを分析したり思案したり、感じたり考えたり悩んだりして、それに発見や感動があったりして、そしてそれがある量を上回ったら、それをとどめて置きたいがために、比較的色あせない「文章」という媒体に書き下すのだと思ってる。

 その構図は、鹿威し(ししおどし)に似ている。竹で出来た円筒形の器に、ちょろちょろともしくはドバドバと水が流れ込み、だんだんと溜まっていく。溜まっていって、しまいにある量を超えると、それが勢い良く溢れ出す。その際に、人の胸に響く、分かりやすくも奥行きのあるあの音が鳴る。そういう鹿威しと似ている。

 鹿威しが正しく勢い良く水を溢れ出すことがもし可能なら、その音はより鮮明にできるはずだ。となると、正しく勢い良く水を溢れ出させ良い音を出すためには、石であったり、支柱であったりといった構造が備わっているとよい。文章の場合は、それが「文章表現の技巧」や「思考のフレームワーク」であったりするのかなぁ、と最近思った。文章表現の技巧や思考のフレームワークを用いると、自分の中に溜まった考えや感動が、気持ちよいほどに整理されていくのを感じる。

 ところが一方で、「文章表現の技巧」や「思考のフレームワーク」(以下「技巧」)は、考えを晒すような書き物の弊害になりうる。なぜだろうか。「技巧」を用いることによって、竹筒に溜まった水を整理し制御できるようになると、当然、竹筒に溜まった水をコップのようにあえて汲み出すことも可能になるからだ。

 まだ竹筒に閾値の3分の1ほどしか溜まってないにも関わらず、そのわずかに溜まった考えや感動を、自分のアウトプットとして体裁を整えるようなことができてしまうのだ。人の胸に響く音とは何だっただろうか。響く音とは、鹿威しに十分に溜まった水が、内部に留められなくなった量に達してはじめて勢いよく溢れ出す時にこそ発生するものだったのではないだろうか。そこを「技巧」でもってまだ閾値に達しない水を汲み出し、体裁を整え外に出してしまうと、鹿威しの本来の魅力であったはずの音は永遠に出ないことになってしまう。

 鹿威しの本来の魅力は「水を出す」ことではなく「音」にこそあり、それは「水を出す」ことというよりもむしろ「水を溜める」ことによって実現され得るものだ。

 忙しくはあるものの、毎日色々なことを分析したり考えたり悩んだり、ちょっとしたことに嬉しくなったり感動したりするけれど、それはやはり「出す」ために得ているのではなく「溜めて」咀嚼して、ふとした拍子に勢い良く溢れ出るのがいいのかなと思った。だから、水を出すことよりも、水を入れること、それを溜めることを心がけたいと思った。

【雑感】

 中規模とはいえ、生まれてはじめて記事がバズった。それはある意味とても快感で、その次の記事も同じようにバズったらそれはとっても嬉しいなって思った。けどそうなってくると「次も書きたい」とか思うようになってることに気づいた。でもこのブログってある目的をもって始めたもので「WETな備忘録」のコンセプトに反するのだと思った。WETな備忘録は、いずれ僕が何もかもできるようになったときでさえ、何も出来なかったときのこと、そのときの自分が思っていたことを、忘れずにいるための備忘録のつもり。気をつけたい。

WETな備忘録として