WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

手紙

今日、手紙が来た。

「拝啓 お元気ですか?ぼくは基本的には元気ですが、最近ハゲたハゲたと言われ少し気にしています」

という書き出しで、この手紙は始まっている。

一日は短く生きろ、一年は長く生きろ

 1年という単位はとても不思議だ。

「1年で何を成したか」と聞かれれば、何も成し遂げていないように思う。「1年で何を得たか」と聞かれれば、とても多くのものを得た気がする。「1年で何を失ったか」と聞かれれば、それは、なかなか答えに詰まる。

 僕の師の言葉で、"夜振り返り一日は短かったと感じるように生きろ、大晦日に振り返り一年は長かったと感じるように生きろ"というのを未だに覚えている。僕はこれを結構好きだ。

「どうしてですか?」とよく僕は彼に聞き、自分で考えぇ、とよく彼は僕を叱った。今思い返せば「強烈にやりたいことがあれば、やるべきことはいくらでも出てくる。一日は24時間じゃ足らないと思うはずだ。そして想いがあれば、失敗か成功かに関わらず、何か現象が大小たくさん起きる(起こす?)はずで、一年は多くのことが起きた期間になるはずだ」という趣旨だったのではないかと思う。僕はこれが結構好きだ。そのように生きたいと常々思っている。

時間が無いと、いとも簡単に言うようになった

「ご存知かと思いますが、先週ぼくはある会社を退職しました」

と、その手紙は続いている。

 今日や、昨日、先週を振り返り、僕は何をしただろうか?大小を問わず、どんな成功や、どんな失敗(←これ大事!)をしただろうか?やろうと思ってた事はどれだけ進んだだろうか。やりたい事、つくりたい物、会いたい人、勉強したい本、達成したい仕事、踏み出したい一歩を踏み出しただろうか。一年を振り返り、僕は誰かを驚かせただろうか。僕は何かに驚いただろうか。自分や誰かを幸せにしただろうか。

 一日はかくも短いのに、やっぱり、僕にとってこの一年も短かいと言わざるを得なかった。

大きい石から入れる

手紙を読み進める。

「お元気ですか?日常に忙殺されていませんか?」

その手紙はしつこくもまたお元気ですかなどとふざけた質問をしている。続く質問も果たしてふざけている。

 そういえば最近、やけに「壷と石と砂利の話」が頭をよぎる。これは一種の怖い話だ。あまりに有名な話なので、糞さわりだけ言うと、

  • 教授が大きな壷いっぱいに石を入れた。学生に問う「これは満杯か?」
  • 教授がその壷にさらに小石を所狭しと入れた。学生に問う「これは満杯か?」
  • 教授がその壷にさらに砂利を流し込んだ。学生に問う「私が言いたい事は何か?」
  • 教授が問う「もし仮に砂利を最初に入れていたらどうなっていたか?」

 こと「仕事」というフィールドにおいても、僕はもっと注力すべきことがあるのかもしれない。僕がちゃんと生産性を出して、組織に利益をもたらせるようになるには、もっと先に目指すべき事があるのかもしれない。会社は僕の遊び道具じゃないし。

 仕事を離れても、優先すべき事があるはずだと思う。今何がしたいかをもっと明確にすべきだと思う。そう、僕はまんまと、そしてせっせと壷に砂利を入れていたりして。

 人生は取捨選択の連続で、自分にとって「大きな石」が何かを、常に問うことかもしれない。

空腹で、馬鹿で、青くあること

 1年という単位はとても不思議だ。

「1年で何を成しとげれるか」と聞かれれば、何でも成し遂げれるような気がする。「1年で何を得ることができるか」と聞かれれば、たいしたものは得られない気がする。「1年で何を失い得るか」と聞かれれば、それは、なかなか答えに詰まる。

 唯一の救いは、今日からスタートできるということだろうなぁ。

 

その手紙は、

「ぼくは、あなたが今日もhungryでfoolishで、youngでいてくれればと思います。 敬具」

と締めていた。

その手紙は、最後まで胸くその悪い、まったくもって腹が立つ手紙だった。

 

WETな備忘録として