WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

「今年も早かった」と来年は言わない【2013/12/31】

いろんな

 いろんな作文の構想があったんだけど何ひとつまとまらないまま大晦日になってしまった。思えばこれは僕の2013年を象徴していると言えなくもない。

毎年のことのように

 毎年のことのように「今年も早かったな」と、年の瀬にぼやいているような気がするよ。正直あんまり気持ちよくない。「今年も早かったナァ」と言いたくないと、僕は思った。そういうのをどうすればいいかと、けっこう色んな友人と話したりした。

計画をすること

 1年が早かったのは、単純になにも計画しておらず、見積もった何かをやり遂げた感覚が無いからじゃないのかい?

という話にも当然なった。

 2014年は計画をしよう。それも「どうありたいか」を先に考え、それを2または4または12または24または52または365等分して計画を立てよう。1年という量は、途方も無いようで、実は矢のように過ぎて行く。

経験をすること

 1年が早かったのは、歳を取り多くの経験をし、1年で経験することが相対的に少なく感じられるからじゃないのかい?

という話にも当然なった。

 2014年はたくさんのことをしよう。それも「はじめてのこと」を。幼い頃の僕が1年間に経験した「はじめてのこと」に匹敵するくらいたくさんの「はじめてのこと」をしよう。幼く馬鹿であり続けるためには、努力が必要なのだ。

記録をすること

 1年が早かったのは、1年で何をしたか記録を残しておらず、君の1年の長さを思い出せないからじゃないのかい?

という話にも当然なった。

 2014年は痕跡を残そう。何を感じて何をしようとし、実際に何をして何が残ったか、それを後で見返せる形で記録をしよう。日記でもコミットログでもいい。1年という量は、矢のように過ぎて行くように見えて、実は何でもできるポテンシャルがある。

思い出のはなし

 上記の三つの切り口は実にロジカルにまとまったと思っている。綺麗に言うなら、計画・実行・反省という切り分けになる。これで満足できれば、この今年の最後の作文は構造的にまとまった文章になっただろう。

 でも、そうできなかった。それは、昔のことを思い出してしまったからだった。

あのときの「早くなかった一年」を思い出す

 では、僕たちの記憶の中で「早くなかった一年」があったかどうか思い出してみよう。

という話にも当然なった。

 ある。「早くなかった一年」は確かに記憶にあった。目の前の友人も「ある」と答えた。そして面白いことに、高確率で共通点があった。

 「大変だった一年」なのだ。

 もちろんその全てがことごとく「大変だった」というわけではないが、「早くなかった一年」に該当する記憶の多くは「大変だった」という共通点を持っていた。しかもそれは「日常のストレスにジッと身を固めて耐えるしんどさ」ではなく、「乗り越えて次のステージへ進むために降り掛かってくる"艱難辛苦"」という特徴があったようだ。

 つまり、多くの艱難辛苦に立ち向かう(ないし立ち向かわざるを得ない)機会を多く設ければ、1年は「早くない」ものになるのかもしれない。

 2014年は自分に試練を課そう。(吐き気

実にエモい

いやぁ、実にエモい切り口だ。実はさらにもう一つエモい切り口がある。勘弁してくれ。

あのときの、「その年の瀬の瞬間」を思い出す

 あの「早くなかった」時、その年末、一体僕は何を考えていただろうか。

と密かに思っていた。

 驚いたことに「早くなかった」当時、僕は年末に「今年は早かっただろうか?」という回顧すらしていなかったことに気付いた。回顧すらしていないのだから、それが「あぁ今年も早かったなぁ」という記憶になるはずがない。では、当時の僕は「この一年」を回顧しないのに、なぜに、現在の僕は「この一年」を回顧し、挙げ句「おぉぉ今年もアっちゅー間やったなどないしょヤバいでしかし」という気持ちにならなければいけないのだろうか。

そもそも一年が「早くてはいけない」のか?

(そう。ここまでくると支離滅裂、本末転倒なので、もはやロジカルでクリティカルで構造的な文章なんてケツの毛も吹き飛ぶ勢いで崩れ去る)

 そもそも、この一年が「早くてはいけない」理由があるのだろうか。そもそも何故僕は冒頭で正直あんまり気持ちよくない。「今年も早かったナァ」と言いたくないと、僕は思った。と言ったのだろうか。

個人的な考えですけどー

 「やっぱり俺は無駄な道は選んでなかったのだ」「意味のある時間を過ごせているのだ」「今居る道、この選択は間違っていなかったのだ」という確信を僕は欲しいんだろうなぁ、と思った。ちょっと穿ち過ぎかもしれないけど、僕はそう思ったのです。

 過去を振り返りそれを評価するというのは、ある意味とても観測的に事実を捉えフィードバックを得るのに優れたアプローチだと思う。それは間違っていない。しかしそれは、「先に導きたい結論ありきで、その結論を補強する解釈をするために」振り返るのではない。

「良ければ、さらに改善し、進む」ため、

および

「間違っていれば、道を変える」ために、

回顧し、それを評価するのではなかろーか、と。そう考えると、別に一年が早ければ猛烈に後悔して、激しく(もしくは厳しく)それを変えるのが気持ち良いのであって、僕みたいに「おぉぉ今年もアっちゅー間やったなどないしょヤバいでしかし」とか言ってる場合ではない。

 2014年が早いか早くないかということが本当に自分にとって最も重要な指標なのか、もう一度だけ疑おう。(目眩い

と、いうように

 最初の方は「おーこれは綺麗に論点まとめれるなー」と思っていたにも関わらず、書いて考えるほどにエモい方向に拡散してしまって、しかもそれを構造的な文章を書くためにやむなく黙殺するという冷酷な判断ができず、どうしてもエモいこと書いておきたい気分になってしまった。

 この理屈と感情のまとまらない論を、綺麗にまとめれるようになるのはいつだろうか。

 まあ1年後くらいかな。

 たっぷり1年もありゃーほっといてもどうにかなるっしょ(鼻くそホジホジ



 最後に、どこぞの引用を貼って、2013年のWETな反省としたいですまる

 光陰は  人の世に言う  矢にあらじ  ただ歳月の  人待たぬなり

WETな備忘録