WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

会社に入ってなぜ夢を忘れるのか::僕の場合

はじめに

学生のときの友人と久しぶりに東京で会ったりすることがしばしばある。

大学にいたときの彼らは今まで会った誰よりも知性とユーモアに溢れ、奇抜な発想と冷静な分析を兼ね備え、時に冷めて僕の夢を批判し、時に熱く彼らの夢を語ってた。そういう時間は今にして思えばとても意味のある時間だったのかもしれない。

僕自身は勉学好きが高じて3回も卒業を延期してしまった。

「なぜ夢を忘れたのですか?」

その間彼らは、その多くが「夢のための修行」もしくは「素地、実績、人脈作りのため」と言い就職していった。そしてその多くが、毎年目の輝きを失っていったように思える。類い稀だったユーモアや、奇抜な発想、夢を語る熱を失っていったように思える。

毎度、僕はそれを「なぜなのだろう」と思っていた。そういった気持ちを彼ら自身にぶつけたり、信頼のおける先輩にぶつけたり、(僕が留年なんてするからもはや同期になった)後輩にぶつけたりして、その疑問を解決しようとした。

だけど、彼らの回答を聞いても、いまいち納得のいく自分なりの答えは出来上がることがなかった。

(このエントリは僕が感じていた「やりがい」という言葉のうさん臭さの補足と訂正みたいなものだ)

よくある回答

多くの回答は、要約すると以下のようなものだったと思う。

  • 現実を知り、より具体的に実現可能な夢にシフトした
  • 自分の現状から、そのような夢を語るのは早すぎる
  • 守るべきものが見つかり、挑戦が難しくなった

しかしそのいずれも僕を「いやまー確かにそれはそうだけど、いまいちなっとくいかねーよ」という気分にした。

適切な日本語が思い浮かばないのだけれど、もっと内的な理由、自分の気分から来る理由が足りない。

「目的のすげかえ」が起きているんじゃないか?

だって、もし上記の理由が過不足無いのだとすると、彼らはもっとストレスを感じていて、悔しさに満ちていてもよいのではないかと思った。

しかしそうではなく、彼らはある程度満たされていた。目には未だにある程度の力があり、決まって口にするのは「やりがい」とかそれに類する日本語だった。

もっと、彼らの内部で「そもそも目的のすげかえ」が起きていると感じたのだ。

「その程度のことでやりがいとか感じちゃう奴だったっけ?」という感じ。

 

その現象のサンプルが一人二人なら特異な事象で片付くけれど、それがたくさんの人間で起きていることを考えると、これは「何かしら目的のすげかえを引き起こす仕組みが"会社"というものに備わっているのではないか」と疑うようになった。

 

数年遅れでやっと社会人になれた僕に起きたのは、それを実感させる出来事だった。

出来事1:他人との比較がやけに気になるようになった

会社に入る前、半分学生のときは、自分にしか出せないバリューを、この組織で売れないなら違う組織に、というように売り歩いていた気分だったのかもしれない。

けれど会社に入るときは、曲がりなりにも表面上は横一直線で多くの同期と一斉スタートし、社内の仕事を与えられたりする。ある人はそれを次々にこなしていく一方、自分は与えられた仕事をうまくこなせなかったりする。そんな中、同期がぼちぼち表彰とかされるようになり、いよいよ「自分もあのように認められなければ」と感じたりするようになった。(自分自身、自分がこんなことを感じていると自覚したとき、自分にがっかりした。だってそれはつまり「人が秀でている能力や努力で獲得した能力を、自分も欲しい、比肩したい」と思っていることで、その延長は「没個性」でしかないと思ったからだ)

出来事2:他人に褒められて「うれしい」などと感じてしまった

そんな焦りやストレスにさらされているとき、やりたくはないことをずっと続けてやっと、ほんの些細なことではあるが上司に認められる出来事があった。

僕はそれを「うれしい」と感じた。

「よし、この方向で努力を積み重ねれば、もっと認められるのではないか」と感じた。

そう思ってしまったのだ。

その日の夜、帰り道ふと我に返って自分自身がそう感じたことを自覚した瞬間、鵜飼の鵜、猿回しの猿、サーカスの虎の絵が頭に浮かび、その夜は自分が許せなくて寝れなかった。(嘘です熟睡しました)

もう一つの回答

この二つの出来事で、僕は「なぜ夢を忘れるのですか?」という問いに対する彼らの回答に補足すべきもう一つの回答、それは「なぜ目的のすげかえが起きるのか」という穴を埋める回答である、を日本語にできる気が初めて起きた。それを忘れないために、だから今これを書いている。

僕の場合

僕は、自尊心を自家発電できるタイプではない。というのはどういうことかというと、

誰か他人に認められないと、自分のやっていることが素晴らしいことだと、やる価値のあることだと自分で認めることができない。仮に一向に誰にも見向きもされなければ、仮に少しでも誰かに「それ面白いね」「すごいね」と言ってもらえないならば、僕の自尊心はズっタズタのボロボロになってしまう。僕はそういう弱いタイプの人間なのだ。自尊心が他人の評価に依存するタイプなのだ。

そんな人間が「ある能力」が求められる(求められるその事自体は全く正当なことであるし、それは備わる必要があると思う)環境で長いことその取り組みを評価されない状態が続いたとしよう。もちろん胸の奥には「コレをこうしたい!」と強く思ってい続けてはいるのだが。自尊心が保てず「自分がやっていることは本当は意味が無いのではないか」「そんな自分がやりたいことなど果たして素晴らしいことと言えるのだろうか」と、ずんずんと自信を無くしていく。ゆるやかに、確実に、ズっタズタのボロボロになっていく。

「自分にとって価値のある事はこれだったのだ」という錯覚

そんな中ある拍子にうっかり他人に認められたりすると、一挙に自尊心を取り戻す。自尊心を取り戻すというのは「自分がやっていることが素晴らしいことだ」とか「やる価値のあることだ」と自分で認めることができるようになるということだ。

だがしかし、

この場合の「自分がやっていること」って何だ?

この瞬間「何にとって」だ?

自尊心を取り戻すこの瞬間に、僕の目的はすげかえ圧力に晒されたのだと今では確信している。ある程度の快楽を伴うため、その場では捕捉できなかったが、これがアブナいのだ。

かつて僕にとって「熱く語った夢」や「どうしてもやりたいこと」が「自分のやっていること」であり、多かれ少なかれそれは「素晴らしく」「価値のあるもの」だと評価される環境だった。

しかし社会に出てそれらは評価されるものではなくたった。

評価されるのはもちろん実績であり、会社が求める能力である。当然、組織とはそうあってしかるべきである、組織において「素晴らしい」「価値ある」と評価されるべくは実績であり会社が求める能力である(と、保身のために言っておく)。それが組織である。

なので、仕事ができない自分にとって「熱く語った夢」や「どうしてもやりたいこと」は自尊心を保つために無意味なもに初期化される。

そこで滑り込む自尊心を保つための行動が「仕事で価値を出す」ということになるのだ。仕事で価値を出せば、他人に認められ、最低限欲した自尊心を保つ事ができる。

「自分にとって価値のある行動はこれだったのだ!」と開眼するのだ。

こうして、仕事の「やりがい」を語りたがる鵜が完成した。

それは僕だった。

こまったちゃんな僕

僕にとって生きるうえで自尊心はとても大事だ。精神衛生そのものと言ってもいい。自尊心を保てなくなることは、精神衛生を悪化させ、正しい判断ができなくなり、人に優しくあれなくなる。

しかもその自尊心を自家発電できないのだから、なおさら始末が悪い。だから他人に認めてほしいと思う。

そのくせひねくれものなのだから、もう救いようが無い。皆無。他人の要求する価値以外のものを提供したくなっちゃうひねくれものなのだ。

そんな僕の目的のすげかえはこのように起こり、そして僕は立派に「彼ら」の仲間入りになるのだなぁ、と。いつか家庭を持ち息子に「父さんはこういう夢を持っていたのだが、本当にやるべきことはそれじゃないと気づいたんだよ」みたいに偉そうに語るんだろうなぁ、と。

 

蛇足:だから僕はどうすべきか、という今考えてること

毎週土日はだいたい会社で業務以外のことをしてるか、そうでなければお気に入りの作業カフェで勉強をしたりしているの。少しずつだけど着実に分かること出来ることは増えてる。コードそのものもだんだん奇麗になってる。読めるようにもなってる。

それをする上で、とりわけ僕みたいな人間が気をつけなきゃいけないのは、「今やっている勉強が、生計を立てるためのものなのか、やりたいことをやるためのものなのか、はっきり線を引いて分けること」なのだと思った。

「生計を立てる」というのは「お給料もらう」ということとその他に「精神衛生をぎりぎり健康に保つ」つまり「最低限の自尊心を稼ぐ」という意味も含めたい。

それと「やりたいことをやる」というのを線引きして分けるべきだと思うのだ。

そうすることで、もし一時的に自尊心に枯渇し、しかし仕事で価値を出す事で自尊心の回復に成功したとしても、「これで自尊心は確保できたので、価値あることはそこそこしてるけど、やりたいことはこれの他にある」と常に自覚し続けられるのではないか、と思い至ったわけです。

そうして、無自覚の「目的のすげかえ」を防止し、いつまでたっても、東京の飲み屋で再会したとしても、僕はユーモアに溢れ、奇抜な発想を持ち合わせ、夢を熱く語る、なんともイタいオトナであり続けることができるんじゃねぇかな、と。

 

蛇足ではあるけれど、僕がいまどうすべきなのか、今時点での僕の見解だ。

(このエントリ全体が蛇の足である感ございますね)

 

 

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