WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

ドイツでプログラマとして働いて半年がたちました。

と、いうやつを8月末に書こうと思ってたらもう12月がすぐそこまで来ている。

人生設計とか考えるのがしゃらくさくなり、と言えば格好はいいんですが、何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安と向き合うことに疲れて、ビールとソーセージが好きだという理由だけでドイツに行きたい、というか行くことに決めたのが昨年の11月くらい*1で、そのときは前も後ろも何も決まってない状態だったので、いそいで準備とかしたのでいろんな人に迷惑をかけてしまったかなあと思いつつ、深く感謝はせども、反省はしていません。いつも本当にありがとう。

こういう無茶な生き方をするために心技体マッチョなものを身につけたはずなのであって、せっかくなので無茶な生き方しないともったいない。

所詮地球でした

ドイツに来て即、ボーフムというサッカーしか無えみたいな田舎街に単身で顧客に常駐して、スイスのクライアントの2次請けみたいなことをしたんですが、まず感じたのは「ドイツも所詮地球なんだなあ」ということだった。当たり前だけど空は青くて、空気が悪いところと良いところがあって、仕事はたいへんなことがあったり暇な時期があったり、金曜にはビールを飲んだり飲みつぶれたり、街行くひとは皆自分の人生を歩いており、本質からすると何ら日本と変わらんなという気持ちです。ヒコーキだって乗り継ぎふくめて24時間もあれば行けるし、なにも片道3年かかりますという距離でもなく、インターネッツがあれば何も変わった様子なくツイッターで下品な日本語を垂れ流し続けることも可能で。

ただ、所詮は地球なんだけど、コミケが遠いのはつらい。あと、『君の名は。』観たい。

結論としては、やっぱり日本最高だと思う。

ヨーロッパの働き方

「ドイツ語で働いてるの?」とよく聞かれるんですが、ドイツ語はイッヒリーベディッヒぐらいしか知らなくて、おもに英語です。最近はドイツ語しか喋れない売店のおばちゃんにサンドイッチを頼んで「寒いっすね」ぐらいは言えるようになった。さすがに、売店のおばちゃんにイッヒリーベディッヒと言うわけにもいかない。

縁あって、アムステルダムにいるid:watildeさんやちょっといつもどこにいるかわからないid:ymotongpooさんと会ったりしたんですが、オランダ人は働かないらしいですね、奇遇ですねドイツ人もわりと働かないっす。

というか、予想通りというか、「仕事」と「自分」の間に、強く、時に無責任に、はっきりと線引きがある。ので、アホみたいにプロジェクトが炎上しているときに平気でバケーション行ったりして、あとは自分を守るために他人のせいにするのがたいへんに上手い、悪い意味じゃなくて。国土の取り合いからほぼ無縁であったニッポンとの、国民性レベルで染み付いた「外交」に対する態度のようなものに、学びが多いし、感動すら覚える。

ただ、ニッポン人の「よく言えば責任感の強さ」は、この中で働いていると、明らかに強みだよなあと思うことがある。

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ドイツくそさむい。

これからの働き方

尊敬すべきid:shiwork先輩をたずねてロンドンに行った時、ymotongpooさんとも、肉体労働の大半が機械に置き換えられ、人工知能がもっと発達して知的労働すら機械にまかせられる時代がきたら、ニンゲンの働き方はどう変わっていくかという話を、酒場の酔っ払い代表として、語った(記憶がある)。

「生きていくことができる」程度の生産活動がもはや機械によってなされる時代のことを考えると、ベーシックインカムの話になっていくのは当然の流れだと僕は思っていて、ベーシックインカムが本格的に導入されたとき、ぼくたちはなぜ働くのかという問いに(もう一度)放り出されることになると思う。

「働きたくないけど働いているひと」という層がもはや存在意義をなくして、「生産するひと」と「消費するひと」の二極化が進むんではないか、というその酒場ではそういう話になった気がする。

あのあと、ロンドンの売春宿を小一時間探し歩いて、やっと見つけたところ、たしかにブロンドだったけど、控えめに言っておばちゃんだったことをここにご報告いたします。二度と行かないと思います。

錯覚不幸

ベーシックインカム〜早く来てくれ〜たのむ〜」って週2回ぐらいのペースでつぶやいている。「ベーシックインカムさえ来てくれれば、僕はもっと社会に貢献するイノベーションにエネルギーを注げる!」と僕は信じているのである。しかし、はたして本当に「ベーシックインカム」が無いとダメなんだろうか?

考えてもみると、ベーシックインカムとかいう制度が導入されようがされまいが、僕らはたとえば江戸時代から比べれば段違いに豊かであり、戦中から比べれば超が付くほど平和だ。我々がイメージする「最低限の生存に掛かる豊かさ」というのは実はすでに社会的に獲得されているんじゃないだろうか。

つまり、いつの世も「最低限でいいから豊かになりたい」「最低限でいいから幸せになりたい」というのは、悲しいかな「もっと可処分所得が欲しい」であり「他人より豊かっぽい写真をフェースブックにアップしたい」であるので、おそらく、いくら技術が発展し人工知能が知的労働を代替しようが、広い意味でニンゲンが「強いられる労働」から解放されることはないんじゃないかな、と思ったりもする。その場合、労働を強いるのは自分自身の「錯覚不幸」なのだけれど。

「自分は比較的不幸である」という錯覚から脱却し、「自分は、まぁだいたいなにがあっても、幸せである」という事実を後ろ盾に、もっと前のめりに冒険して死にたいな、と思う今日このごろです。

今は火星に行きたいです

とはいえ、昨今、地球の左っ側でも右っ側でも、もはや「格差」という言葉で表現できない「断絶」が話題になっていますが、民主主義がその断絶を汲み取れなかったという疑いようの無い事実を鑑みるに、我らがジャパンでもそれは起きていて、もはや修復は無理なんじゃ無いかなと思ってて。だとすると、やっぱり地球外移住って現実的に見えてくるので、火星に限らず、地球外移住の事業やってる人いたら教えてください。マッチョな心技体を捧げます。

雑感

自分の口から「いつか◯◯をやりたいと思っている」という言葉が出ることが、ひどく悠長で、そんな悠長なことを言う自分が情けない。人間は、死にたいと思っているときになかなか死なず、生きたいと思っているときあっけなく死んだりするので、油断ならない。

以上が、2016年の夏休みの宿題になります。ご査収ください。(すごく遅い)

WET