WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

35歳から見た働くという景色。生き方を考える歳について

「そういうのは20代に置いてくるものだろう」と、そいつは言った。

そいつは、高校のときからの親友で、とは言っても高校のときはロクに会話もしなかったが、高校を出てからなんとなく長く付き合っている。そいつは、出版社に勤めたりして、プライベートではアマチュアだがCDを出すぐらい音楽をやっていて、僕もときどきライブを見に行ったりする。僕のくだらない、いつまでたっても幼い話に、いつでも独自の視点から付き合ってくれる、大切にしたい友人の一人である。

お互い35歳になり、久しぶりに会って酒飲みながら話をするともなると、奮発してお寿司なんて食っちゃったりするのだが、放課後のガストで4時間も5時間もおかわり自由のカップスープと甘酸っぱい恋話で粘っていた俺たちが、気づけば遠くへ来たもんだと思う。あの頃の俺たちは、鍋の中のワカメをどれだけ多く掬うかに、情熱と空腹をかけていた。

労働と給料

自分を如何に高値で売るか。結局はそういうことに情熱を費やしてきた10年間だったように思う。「生存戦略」だの「Shape of Life」だの、カッコいい言い方をしてみたものの、自分を突き動かしていたのは、自分という商品をどうやったら最も高く売れるか、それは商品そのものの価値だけでなく、ラッピングだったり、マーケティングだったり、トレーディングだったり、アービトラージだったり、何でもいいんだが、値が付けばよい。良い値がつけばよいのである。

プログラミング、あるいはクリエイティブという「かつて憧れたもの」を、入り口でこそすれ、踏み台にしたような形で、いまはソフトウェアを主業としない職業で食っていっているが、これは最も経済的な判断だったと僕は思っている。

くやしいが、これは最も経済的な判断だった。

今自分が貰っている給料を、じゃあ「職業プログラマー」として貰える環境があるかというと、俺には無いと思っている。給料に値する価値を出すためには、自分は今コードを書いてはいけないのである。コードを書くことではない場所に、自分の提供価値があるのだと、毎月25日の銀行口座を見て実感するのである。

「生き方」を考える

「自分の売り方を見つける」ことで、それだけでかなり生きるのがラクになったとは思うが、ある一定の、たとえば家にシャワーがあるのに毎日近所の銭湯に行くだとか、たとえばガストでスープを単品で6回注文するだとか、サイゼリアで1人でデカンタワインを注文してベロベロになるとか、ある一定の金を得ることで満たされる何かが満たされたあと、直面する問題があった。

「これ以上、なぜ働くか」

これ以上ハードに、これ以上学習をして、これ以上の給与をもらうことに一体どれだけの価値があるのだというのだろうか。これ以上ハードに、これ以上長時間、あるいは、もっと生臭く言うのであれば、これ以上高度でこれ以上責任のある仕事をする意味が理由がもう無いんである。

そもそも、自分はプログラミングそのものに愛されたわけでもなく、かといって今やっている仕事を根っから鍛え上げられたわけでもなく、なんとなく、どっちに向いても一流が居る分野を組み合わせて二流の顔をしているだけの三流であり、そんなこんなでそこそこの金が得られるなら、これ以上ハードワークをする意味がそこにはないわけで。

「おちあいくん、それは、けっこうみんな通る道なんよ。ある程度収入を得て、安定して、気づくんよ。生き方を考える年齢なんよ」

働く理由。働くという景色

ある別の先輩が、彼はプログラマ兼ライターなのだが、彼はこれを「生き方を考える年齢」なのだと言った。多くの人が、どこかで、金を稼ぐという行為が、欲望をはじめとする何かしらと飽和し、その時点において「これ以上、なぜ働くか」という問いにぶち当たるという。

そんなとき、その先輩いわく、人は「金のかかる趣味」を見つけるのだという。ある人は家を買い、ある人は車やバイクを買い、船、ある人はアート、ある人はペット、時計、スニーカー、旅行。

そして「金のかかる趣味」の最たるものがある。

それが「家庭を持つ」なのだと。

合点がいく。大学の時、一緒にアメフトをしたやつらの多くは商社に就職し、若くして高給を得て、若くして結婚し、若くして家庭を作っていた。当時でこそ僕はそれを「易きに流れた」みたいな謎の意固地で否定していたが、今なら痛いほど分かる。Produceを経て、Consumeに至り、彼らが至ったのはReproduceであり、僕は単に1周遅れだっただけなのだ。

素直に言うなら、今になって、彼らのその気持がよくわかる。

家庭を持つということがいかに「クリエイティブ」で、いかに「チャレンジング」で、いかに「エキサイティング」か、今ならそれがどんな仕事よりも刺激があるか、分かる。

金のかかる「人生」

とはいえ、家庭というものは今すぐには作れないし、今からできる「金のかかる趣味」って自分にとってなんだろう?と考えた結果、今すぐできる「金のかかる趣味」ってのは「親孝行」かなとたどりついたが、とはいえ、親も死ぬ。いずれこの趣味は、いずれ終わる。自分が死ぬときには、きっと無い趣味である。

金のかかる人生、あるいは金をかけてもいいと思える人生、それを見つけることが向こう5年の、つらく苦しい試練になるような気がしている。

35歳から見た働くという景色

自分をどう売るかは見えたが、結局の所、どう売れば高く売れるか、生存戦略という都合の良いわかりやすい目標を隠れ蓑にして、結局自分が何をしたいかということについては、自分をどう売りたいかについては、10年もの間「俺はもがいている」という疑いようのない理由をつけて、何も直視してこなかったのかもしれない。

それは良いんだが、それは何も否定されるもんではないんだが、今35歳という年齢にいたって、次の何かが視野に入ってきている。

30でやっと立った。その実感はあった。傷みを伴って、自らの足で立った実感があった。

でも、それでも、さらになお、40にして惑わずには、まだほど遠い。自らの足で立ち、惑わず進むということの難しさを、今、容赦なく過ぎる時間とともに痛感しているのである。

惑う暇があると言い換えてもよい。こういうものは20代に置いてくるものなのだと思う。それでも、この惑いは、きっと明日の自分を導いてくれるものだと僕は信じている。

流れてく時間は容赦無くいつかボクらをさらってくから*1

雑感

わかんねえけど、少なくとも1年に1回はフルスイングで自分の感情を文章に吐露する機会が必要なんだと思う。誰に見せるとか、どんだけバズるとかではなくて。いずれきっと今日思ったことを忘れている、自分のための、WETな備忘録として

前日は id:garsue 、明日は id:shinyorke です。 アドカレはここ

望楼

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