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WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

「型」とは何だっけ

僕は大学のある期間(「ある期間」であったことが今では悔やまれる)

毎日、ある"空手の型"をやっていた。

 

 

昨日は雑多なタスクに時間をかけたり、雑多ではないタスクが調子良かったりで、結局徹夜したのだが、徹夜すると時間ができて、いつもできなかったこと、部屋の掃除とか郵便物の受け取り(窓口24hで驚いた)とかをdoneしたりして、ああやっぱり朝は清々しいなとか思いながら、しかし急に眠気が襲ってきたので急いでシャワー浴びて家を出て、これは会社で書いてる。

 

 

会社に来る途中の話だ。

僕は歩いていた。

 

 

本当になんでもなく、ふと「あの型、覚えてるかな」と思ったのだ。「あの型」とは前述の、大学の時やった"空手の型"だ。

朝6時の街は、飲みあがりの若者や若くない外国人が一方では騒ぎ一方では吐き、その傍らを過ぎるサラリーマンやサラリーウーマンなどが不思議なバランスで混ざっていて、多少臭い。

「かれこれ4年前にもなるのかな」と考えると同時に、歩きながらではあるが上半身だけ最初の姿勢を思い出したらあとはもう、意外なことに全て覚えていた。

手が、腕が勝手に動いた。わらわらとした街を歩きながら、恥ずかしそうに型を通してやることができた。

 

まず体が覚えていたことにちょっと感動した。

で、その後が面白かった。

すごい元気が出たのだ。すごい元気が出て、全身ぞわぞわした。大学の時だったら羞恥なく「気が通っている」と形容していた状態になった。今日一日、いつもよりがんばれる確信がした。要するにまぁ「気が通った」。

 

徹夜明けで

「空手の型は不思議な効果があってだな気が漲る(ry」とか「丹田呼吸法がだな(ry」とか「チャクラ(ry」とかいう力説を咬ますほどテンションは高くないのだけれど、

「なんで今日の僕には(特殊論として)こんな効果があったんだろう」と疑問に思って理由を考えたくなるほどにはテンション高い。

 

 

極めて具体的な理由なんじゃないかしら、と推測。

 

 

この空手の型をやっていた当時、僕(ら)はある目標を達成すべく、一途に必死だったし、人が呆れる程度に頑張った。それは超しんどかったし、もちろん結構苦しかった。今振り返れば1年ほどではあるが、当時はその1年が全てだと思ってやっていた。

 

 

当然逃げたい感じの時もあったのだが、逃げずにやった。

その経験が、現状をポジティブに否定してくれるんじゃなかろうか。「あのときは一日◯◯時間やったよね?」「あのときはあんなに痛かったよね?」「あのときはあんなに逃げたかったよね?」「で今は?」と訊いてくれる。

だから現状に大きな余地を感じるし、もっとやれるという自信を示唆してくれるのかもしれない。

 

 

 

ここまでは陳腐な美談、ここからは珍妙な余談。

 

 

 

このように「自分に自信を思い出させてくれる経験」の、その記憶媒体は一体何だっただろうか?

 

 

多くの人、あるいは多くのケースでは、思い出(文脈?)という形で「頭」が記憶媒体なのであろう。

他に例えば「写真」や「日記」が記憶媒体となるケースも多いだろう。

それに対して今回の僕のケースは「身体」だったのではないかと思う。

 

それぞれの「記憶媒体」としての特徴を、あくまで経験則で評価してみよう。

 

頭は忘れる。

頭で覚えたものは案外すぐ忘れる。それがエモーショナルな経験であればあるほど、頭での理解と記録はその当時の「しんどさ」「苦しさ」「切なさ」などをほとんど再現してくれない。

でも、昨日今日のことは一時的に覚えておいてくれる。これはメモリーの機能に近いんじゃないか。

 

写真は失くす。

写真は形に切り出して保管してくれるから、結構安心できるものの、気づいたら「アレ?どこいったっけ?」みたいになることが多い。日記は検索がめんどくさい。⌘+fが使えればいいのにと思う。さしあたり外付けドライブみたいなものか。

 

身体がハードディスクなのじゃないだろうか。

身体に染み込む経験は、一朝一夕では記録されないが、記録されたらそれは長い間劣化せずに、息をひそめ、健気に記録され続ける。ふとした瞬間、景色、臭い、音楽、身体動作(これが型)によって、当時の「しんどさ」「苦しさ」「切なさ」が自分でも驚くほどリアルにその場に再現されるという現象は、誰しも一度は触れたことがあるだろう。

 

 

ということで、

 

 

「型をやる」ことの意味は、

「不思議な効果(ry」「丹田(ry」「チャ(ry」などいかがわしい深淵な理論ではなく、

一途に何かを目指して苦しい思いをしたという経験を、

時間をかけて丁寧に辛抱強く、

「頭」ではなく、あくまで「身体」に記録すること、

なのではないだろうか。

 

 

 

 

そう考えると、どんなスポーツ、武道においても、

(スポーツや武道はスポーツや武道のためにやるのでは無いということも加味しつつ)

「時間をかけて自信をハードディスクに書き込む」行為

「型」こそが、最も重要だとされるのも、分からんでもない。

 

 

 

 

 

 

「うーん、そう考えると、今の僕はどういう蓄積を身体に記録できているんだろうか、結局何時間も椅子に座ってキーボードぺろぺろしてるだけだしなぁ、なんにもなってないんじゃないのか」

 

 

などと思ったりしたけれど、今の職場の環境への不服不満は無く、純粋に自分への不服と対峙でき、好きなだけコミットできて、現に今、当時を思い出しつつもっとやれるなという自戒と共にやる気が漲っているし、

 

 

 

 

 

「そして何より、超楽しいから、いいや」

 

 

 

 

 

という結論に至ったのが、つい3分前なのだった。

 

 

WETな備忘録として