WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

責任と責任感の間。あるいは嘆かない覚悟

2023年は、だんだんと仕事においても「マネジメント」をするようになってきて、それゆえの心身ともに歪みというか軋みのようなものが出てきており、12月はコンビニで800円ぐらいする栄養ドリンクを鬼のように飲んでいた。

アラフォーにして、やっとマネジメントをやりはじめたことはいささか遅すぎるとは思うのだけれど、長年こびりついた心の錆を剥がすには、これがラストチャンスだなという想いがある。身体すら、固くなったものをもう一度やわらかくしようとすると、痛くてやってられんものだが、いわんや、心をや、である。

あくまで、自分のために。WETな備忘録として


話に乗る

今年は、仕事でもプライベートでも、小さくない責任を持つことが多くなってきた。事業を成功させるために考えうるありとあらゆる角度の課題を潰していき、同時にチームメンバーの成長にも貢献する必要があり、結果がすぐ出るもの、2週間おきに出るもの、半年後、1年後に出るもの、さまざまな時間スケールの使命があった。

ただ、自分にとって「頼まれたからやった」ものは自分も頼んだ人たちも含めて、誰も幸せにならないという経験則があるため、何事においても「話に乗る」ことを大事にしている。話に乗る、という言い方が自分にとってすごくしっくりくるんだけど、うまく言語化できないが、おそらく2つの側面があるように感じます。

まず、上から与えられない、ということ。誰かの任命を以て授かる任務ではなく、自分が手を上げ、昇進なら昇進、満足感なら満足感など、あくまで「自分の利益のために」これをやるのであるという入口の問。

次に、達成できると真に信じる、ということ。乗った話の成功条件を明らかにし、できたらいいなではなく、きっとできるでもなく、「結果を担保する」ということであり、それを担保できるという出口の問。

あくまで経験則であるが、この2点を満たさないものは、やる自分も踏み込みが甘く、任せる側も責任を持たず、どちらも不幸になる、不幸にした経験が何度もあります。

見えるからこそ、何もかも足りないことに気づく

さて、自身で責任を負った使命を得たとき、この使命や課題が難解で膨大で曖昧であるほど、何から手を付けていいかわからないのが人のサガであります。むしろ、立場が変わるほどに、向き合う課題というのは難解で膨大で曖昧になっていくのが当たり前のように思う。解くのが簡単な問題なのであれば、きっとあなたが取り組む必要はなく、きっと他の誰かが解くのだと思う。難しいからこそ、立場があり、責任と権限を伴う。

ここで、「困難は分割せよ」というのはデカルトの言葉ですが、難解で膨大で曖昧な課題を当然のごとく分解して、解または解を出すための行動が明確になるレベルまで構造的に細分化してく、いわゆるロジックツリー的な。この「分割」は純粋に経験に基づく技術であり、学習と慣れさえあれば、多くの人が、意識的にせよ無意識的にせよやっているものである。

しかしながら、分解して、「取るべき行動」がある程度リストアップできたあと、ある問題に直面する。

多いのである、やることが。足りないのである、やる人が。大きな課題を持つようになり、課題の分解にある程度慣れてきたからこそ、圧倒的に「足りない」という事実を痛いほど自覚するのである。自分がやるにせよ、手が足りない。誰かにやってもらうにせよ、やる気のある人が足りないのである。

見えるからこそ、理解できる。足りないと。このままでは負けると。

傲慢な責任感ゆえの、正論じみた投降

「勝つために必要なこと」が見えれば見えるほど、分解して解像度が上がれば上がるほど、それを「満たせない」という事実が克明に浮き彫りになり、経験があり視野が広く視座が高い人ほど、その現実に打ちのめされるのである。

この「必要なこと」と「出来ること」の差を埋めるために、身を粉にして働いたりもした。「必要なこと」を滾々と説いて、半ば脅迫的にあるいは強制的に、誰かにやってもらおうともした。しかしその結果、自分のモチベーションが続かなかったり身体を壊したりもしたし、やってもらおうとした誰かも同様に潰れそうになってしまったこともあった。

非常に逆説的ではあるが、自分や他人を潰してしまったりモチベーションを燃やし尽くしてしまうことが、本当に「乗った話」を達成し実現させるために適切なアプローチといえるだろうか。「乗った話」に対する結果責任を絶対に果たそうとしたときに、(決戦前夜ならまだしも、いや決戦前夜であったとしても)自分を含め誰かに「無理をさせる」ことが一体どれだけ「結果」に寄与するだろうか。

なまじ責任「感」があるために、圧倒的に足りない、という事実を前にして、至らないチームメンバーや、至らない自分自身に対してすら、もどかしくどうしようもない無力感に打ちひしがれた。

責任感があるゆえに、無力感に打ちひしがれる、という怠惰に甘えていた自分を見つけたのでした。

勝利への責任ゆえの、全能への諦め

事業を成功させるという使命を実現するために必要な要素の全量と、自分たちが持っているカードの全量とに、大きな差があると気づいたとき、それでも「乗った話」から降りない、とはどういうことなのか、考えさせられる出来事があった。具体的にはまた別の機会に書きたいです。

「責任感」を持つではなく、「責任」を負うからこそ、乗った話から降りるのは面白くなく、「足りない」「全てはできない」をスタートラインとして、だとしても成功するためにどんな戦略を取るべきか、淡々と考えねばならない。それが「話に乗る」ことの醍醐味であり責任を負うことの楽しさなのだと、自分は今では思います。

「全てはできない」をスタートラインとして「それでも勝つ」場合に、撮りうる戦略は大きく分類して以下と整理しています。

  1. 不足の差を満たす
    1. 新たに戦力を補充する
    2. 今ある戦力を増強する
  2. 不足の差を満たさない
    1. ゲームルールを変える
    2. 影響度の高い要素に集中する

1-aの「新たな戦力を補充する」は、実社会においては、もちろん季節外れの途中参加などはあるにせよ、基本的には定期的なイベントに依存し、1年ないし半年といった計画が必要である。 先述の「身を粉にして働く」や「半ば脅迫的にあるいは強制的に、誰かにやってもらおうとする」は、上記1-bに相当し、今ある兵站のまま戦力を増強させるにはある程度の時間をかけて成長計画を立てるべきである。

どうしても「自分を鍛える」ことに耐性がある人材ほど、どんな局面にあっても1-bに逃げがちであるが、どんな局面でも1-bを選択するのは往々にして根性論の現実逃避である。要求の対象が他人であっても、自分であっても、それは「勝ちを遠ざけている」行為にほかならないのではないかとすら思う。

時間のかかる1に対して、同じぐらい重要な考え方が2であり、2-aは勝負すべき市場そのものを変えるなり規制を変えるなりの意思決定が必要である。そして、実社会で他の何よりも手腕が求められ意思決定が関わるものが、2-bである。

1-a,b、2-a,b、それぞれ同等に重要なアプローチであり、局面によって適切な意思決定が必要になってくるのではあるが、体育会系な自分はどうしても2-bに逃げがちであったことに気づいた。

しかし、乗った話から降りず、結果責任を負う覚悟を持つ限りは、「出来ない」ことすら言い訳にはならないのである。「出来なくても勝つためにはどうすればいいか」に脳味噌をひり出さねばならない瞬間があることを、知らねばならないのである。

捨てる怖さと、勝つ楽しさ

2023年は、本当に色々なことがあり、基本的には自分の無力感に打ちひしがれる瞬間の方が多かったし、仕事でも失敗の方が多かったと思う。ただ、1年かけて絞り尽くした結果、上記のような結論に至り「話に乗る」とはどういうことなのか、今では腹落ちしている。

「話に乗る」という表現が、自分にはしっくり来ており、乗るからこそ、はじめて浮くか沈むかの操舵をしているような緊張と興奮があり、だからこそ、航海が成功したときの達成感と安堵があり、だからこそ、次の船出に高揚感を得られるのである。

たしかに今年はしんどい航海が多かったが、一緒に走り抜いた同僚や仲間には最大の感謝と賛辞を送りたいし、小さくはあるが、一緒にこの小さな勝利をもぎ取ったことに尊敬と誇りがあるのである。

本当にありがとうございました。

堂々と勝ち、堂々と負けよ

当ブログでも何度も引用している *1この言葉は、わたしが尊敬する関西学院大学アメフト部の部訓になっている*2ものであります。

この言葉は、文字通り血反吐を吐いた青春時代を支え、暗中模索で夜の海を泳ぐような20代を支えてきた言葉ですが、アラフォーの今、少し自分の中の解釈が変わってきました。

たしかに、敵は強大で、課題は山積みで、要求は理不尽で、目標は遠く、資源は無く、協力は薄く、孤独で、ジリ貧で。

それでも、乗った話から降りずに、嘆かず、捨てる決断に誇りを持ち、この事業を勝たせる、という覚悟をいかなる時も持っていたかという問いかけに、堂々と答えられるような、そんな1年にしていきたいです。

WETな備忘録として。

雑感

  • 非常に観念的な内容で悔しさが残る
  • pyspa Advent Calendar 2023 - Adventar の25日目のエントリでした
  • アドベントカレンダーのおかげで、1年に最低1件書けている。感謝
  • もっと気軽に、頻繁に、備忘録書いていきたい(言ってるだけ)
  • 2024年は、自分にとってきびしい年になると予感しています