WETな備忘録

できなかったときの自分を忘れないように

空の青さを知らず

南米での2ヶ月の仕事を終えて、日本に帰ってきた矢先「また行って。なる早で」と言われ、なるほどね、となりながら今話題の映画『空の青さを知る人よ』を観た。絶妙な伏線回収や大胆などんでん返しがあるわけではなく、テーマ自体もまあよくあるもなのだが、僕は頭がいたくなるぐらい泣いた。観終わったころには目が腫れていた。日本に帰ってきてよかった。日本最高。

親愛なる焦燥へ

ある能力が「当たり前だ」と思っていた頃は、自覚無く、その能力を研鑽できていたのだと思う。が、それは同時に「当たり前だ」と思っているがゆえに自己評価が低く「このままでは死ぬ」という焦燥を常に伴っており、生きている心地がしない毎日でもあった。ただ、たしかに、この恐怖感と焦燥感が自分を強くしたのは疑いようもない事実だと思う。

さまざまなきっかけを経て、人間はそのままである程度うつくしい、ということに気づいてしまい、自分が「当たり前だ」と思っていたモノたちが、実は「当たり前」ではないという自覚を得た。これは自信につながり、自分の売り方を変えた。超人と真っ向から勝負するのではなく、憧れの超人たちが拾えない玉を、いい感じに拾うということが、それはそれで僕にしかできない仕事なのだという自負を持つようになった。

肩の荷がおりたように、生きやすくなった。何事にも、嫌なら "No" と言えるようになった。好きなものやひとを好きと言えるようになった。

しかし一方でこの発見は、長いあいだ僕を育ててくれた、あの恐怖感と焦燥感から僕を逃してしまった。暗くて狭いあの部屋から。そして、今振り返ってみると、半年何も変化していない自分を見つけた。日々の仕事に追われ、あるいはたいして上手くもない趣味に没頭し、適度にたのしい日々を過ごしながら、何も研鑽されていない。ゆるやかに老いているだけだ。

かつて僕を強くしたあの焦燥は、もう隣にはいない。

君は今、どこで何をしているんだろうか。僕から君を去ったとはいえ、また逢えたら、今度はもっと仲良くなりたい。

錯覚不幸と幸せ迷子

これはたぶんマジなんだけど、日本って「幸せの押し売り」がすごい。仕事・結婚・趣味嗜好、ありとあらゆることに強いロールモデル、いわば「正解」があって、それだけが実に「幸せ」であり「それ以外は失敗です!」みたいなやつ。テレビCM、電車の中吊り、新聞、ツイッター、どこに逃げても「いかにお前は不幸せか」ということを懇切丁寧に説得してくれており、じゃあどうやったら「その幸せ」とやらを手に入れれるのか、という質問にはいっさい答えてくれない。

海外とくらべると、二言目にはすぐ「海外は〜」とか言うような薄っぺらには絶対なりたくねえんだけど、やっぱり日本って特殊で、海外で気付けることは多くて、とくに自分の経験した国の人々は「自分の幸せを人任せにしない」「自分の幸せの定義に自分で責任を持つ」ということをちゃんと心得ており、そういった意味では、彼らから見れば日本人ってどうしたって「ひたすらにガキ」なのである。いつまで先生の言う通りにしてるの?いつまで誰かが自分を幸せにしてくれると信じてるの?っていう感じで。ブラック労働とか過労死とかその顕著な例です。

というカルチャーショックを数年前に僕も受けて「もう幸せを人任せにしないぞ!」という決意をして、いたずらに自分と他人を比べたりするのとか、社会や会社が自分をきっと評価してくれるという妄想を捨てたりしたら、メディアによる「錯覚不幸」の呪詛から解放され、人生という時間がだいぶラクになった。

と、同時に「俺はいったい何をやりたかったのか」「俺は本当は何者になりたかったのか」という本質的な問に素っ裸で晒されることになる。あー僕はこういうことからずっと逃げてきたんだな、とヒシヒシと痛感する。今まで道標のようにずっと側にいてくれた「錯覚不幸」はもう僕のケツを叩いてくれることはなく、無慈悲な自由を僕は手に入れて、自分の幸せとはいったい何だったのかという迷子になっている感じだ。

悪い意味で、見事に僕は僕の忌み嫌う「教育」の立派な成功事例であり、内発的なものはなーんも無い、からっぽ、ただただ外から与えられた競争や枠組みに対して抵抗してみせることでしか自分をつくれない箱入り娘だったわけである。

それを今更気づいてしまった。

僕は空の青さを知らない

※ ネタバレを含むので観てないひとは以下のリンクを踏む。

TOHO THEATER LIST/空の青さを知る人よシアターリスト

『空の青さを知る人よ』の中で、登場人物「しんの」は「お前は先に進んだんだ」と言い、それをうけて「慎之介」は「俺はまだ途中らしい」と気づく。物語の前半では、若い「しんの」は野心の象徴かのように描かれているが、クライマックスに近づくにつれ、実は懐古と恐怖心の象徴であり、スれて冴えない中年になった「慎之介」こそが情熱の体現者であった、という構図が描かれる。決して単純な二項対立で僕たちに訴えかけるではなく、あくまで前向きに、幼いときの自分を思い出させ、なおかつ現状や歩いてきた道を否定せず、しかし今からでも前に踏み出す勇気をくれるような作品だった。

このくらいの粒度のテーマがさらに2,3個描かれているため、全体のストーリーとしては大味になってしまうわけだけれど。もっかい観に行こうかな。

まあしかしですね、観ててわかったんですけど、俺の中には「しんの」どころか「慎之介」すらいねえ。強烈な衝動も、捨てられない懐古も、くすぶる野心も無え。ただただ、この狭い世界から出たくて、なるべく遠くに行きたくて、今あるものを嫌がって、何を目指すわけでもなくもがいていただけで、南米で仕事して戻ってきて映画観たら何も残ってねえの。

何もいらない、何もしたくない。息しているだけで2000万円くれ。

焦燥の先、衝動の前

結局、ここに戻って来てしまった。どれだけ逃げても、結局自分からは逃げられないな、という気持ちがある。自分というものが一番わからないもので。汝を傷つけた槍だけが、汝を癒やすことができるというやつ。

さすがにいい歳だし、もうこれ以上「自分探し」なんてしたくねえんだけど、しょーがねーだろ赤ちゃんなんだから、と思います。とりあえずいっぺんしょーもない糞をアウトプットすることで「俺はやっている」と自分を納得させるのをやめて、拠り所を無くそうと思う。

言い訳がましく人生を楽しんでいるように見せるんではなくて。

人並みに紆余曲折を経て、多少生きるのが上手くなったところで、今まで逃げてきたものからの対峙は免れないということを再確認したような気がします。青臭くて口にするのも恥ずかしいけれど、誰が言ったとかじゃなくて何から逃げたいとかじゃなくて自分が何者かとかどうでもよくて「いったい何がしたいのか」というのと、正面切ってケリつけなければならないようです。

しょーがねーだろ、わかんねーんだから。

雑感

長期海外出張に行く前に一度顔を出してきりだった行きつけの飲み屋のママ(♂)に会いに行ったら、その日の朝に死んだらしい。これは完全に俺呼ばれたな、と思った。
関係者各位に混じって、泣くほど飲んだ。

たぶん全部まとめて「女々しいわねえ〜」と叱られると思う。

WETな備忘録として