組織の成長を妨げる「100点を目指す病」の考察
tl;dr
最近学んだこと、
- 成長なくして成果はない
- マネージャーが「100点」を目指すと成長を妨げることがある
- 「ぜんぶやる」は必ずしも有効でない
- 「教育の徹底」は必ずしも有効でない
- 「100点の振る舞い」は、もはや無い
- 結果にこだわる残酷さと向き合うのがマネージャーという仕事の魅力ではなかろうか
WETな備忘録として
良いお年を!
転職しまして
今年の夏に、5年半働いた某コンサルを卒業し、もともとOSS活動が好きだったのもあって今は Red Hat という会社でお世話になってます。案件の切り口こそ技術寄りになりましたが、クライアントの課題を解決するために技術だけ提供すればいいということは本当に稀で、実際は戦略的意思決定の支援であったり、財務部や事業部署を巻き込んだ組織改善だったりすることが大半で、そのへんを急先鋒としてお手伝いしていくお仕事をさせてもらっています。
趣味でマネジメントをやっているものだ
前職ではプロジェクトチームのマネージャーとして、現職ではまだチームが小さいこともあってあまりマネージャーという感じでもないんですが、いずれも、やはり「組織あるいは集団として成果を出す」ことに責任と裁量を持つ仕事をさせていただけていると感じています。そして、ある程度、ある程度ですが、自分はこれを「好きなのかもしれない」と思うようになりました。
一方、プライベートでは社会人1部リーグのアメリカンフットボール部「Club TRIAX」のヘッドコーチとして関わり、毎年、本当に毎年、痛みと後悔を伴った失敗や反省の多い経験をさせていただいており、チーム自体の成長に助けられながら、自らの成長痛と向き合っております。
OSSという趣味もアメフトという趣味も、趣味と仕事がお互いに影響を与え合って補完的な学びを得る機会になっており、有り難い限りです。感謝。
成長なくして成果はない
そんな中、しばしば、メンバーの成長に寄与することと、集団として成果を出すことが、相反する概念かのように語られることが少なくないことに気づきました。まあなんか、言わんとしてることはわかる。非常に短期的かつ近視眼的に、たとえば一日の時間配分などに目を向けると、「自分が」出せる成果を生む時間を、「自分が」成果を出すことに直結しない「誰か」の成長のために使うのであるから、これは相反のように見えます。
たしかに、局所的には、予測可能な「硬い」成果見込みを捨て、不確実な「期待」にリソースを浪費しているように見えるかもしれない。が、組織としては、これは絶対に不可欠な「避けては通れない投資」であります。一人が生み出せる成果だけで勝利条件が満たせるはずも無いし、今ある人的資本をかき集めても勝てないのであれば、集団として「人的資本の運用」をし「資本の総量」を勝利条件が満たせるレベルまで膨らませる必要があるだけで、集団として成果を出さねばならない立場からすると極めて論理的な帰結でしかない、と最近は思うようになりました。(なんかよく性善説とか性悪説とか、人が好きとか嫌いとか、的な対比で語られるんだけど、つまり全然ちがうんですよ、ただの結果責任の話でしかないってことよ)
「100点を目指す病」
ひるがえって、マネージャーとしての振る舞いにも、これに近いことが言えるのではなかろうか、と。
必ずしも、「硬い(ように見える)」成果を「管理」の名のもとに盲目的に追い求めると、人的資本を正しく「運用」できず、成長の無い、毎年負けるチームとなってしまうのではないだろうか。長いこと言語化を試みてはしっくりこなかったこの現象に、今年はやっと(暫定解)として言葉を発見できた気がするので、自らの失敗経験を踏まえ、ここに備忘録。
「ぜんぶやる」病(組織の100点)
当然のことながら、組織が満たすべき機能であったり、組織が目指すべきパフォーマンスだったりを定義したときに、人的資本が「十分に存在している」ことなど、世界中のどこを見ても、いっさい存在しません。言い切ってもいい。どこかで少しずつあるいは大きく、人数が足りない、役者の能力が足りない、時間がない、というのが「当然」であり「正常」なのである。これはけっして「非常時」でも「緊急事態」でもない、という現実をまず受け入れなければならない。
このような前提で組織としての成果を出そうと思うと、すべてをやることは土台無理である、ということに気づいた。自分は、これに気づくのに2年ぐらいかかった。不器用なもんで。戦略的価値から組織機能に優先度を付け、戦略的に必須である・落としてはいけない領域にこそ120点を求めるが、そのほかの領域は、いわば戦略的敗北を取る必要がある。
有り体に言えば、選択と集中に他ならない。もっと直接的に言えば、勇気と自信を持って「100点を取らない領域」を決めないといけない、これが「正常」であり、それを決めるのが俺たちの責任であり仕事なのである。
「教育の徹底」病(メンバーの100点)
それでも、組織機能を選択と集中したとて、今ある人的資本では勝利条件にはとうてい満たない、という状況もままある。さらに大きな範囲での選択と集中をし、経営判断として外部リソースの投入をするのも一つの方法ではあるが、そうはならないのが世の常です。いわずもがな、経営判断として選択と集中したときに切り捨てられるのが自分のチームである可能性ももちろんありますよね!!
今ある人的資本で、なんとかして成果を出さねばならないと考えたときに、選択と集中の次に必要なことは、少しでも・少しずつでも構わないので人的資本を大きくすることなのだと、自分は思います。やるべきことを絞り切って、外部リソースの投入も無く、それでも組織としての成果を追い求める場合(まぁ今日の日本企業でよく見る景色ですが)、どうあっても資本の総量を少しでも大きくし「取れる戦略」の可能性を増やさざるを得ない。
裏を返せば、メンバーに「なって欲しい像」なんて悠長なことは言ってられんくて「なんでもいいから成長してくれると超うれしい」であるので、とにかくメンバーが「興味があること」でいいし「適度なストレッチ」で十分なので、とにかく少しずつ着実に、何かを成長させてくれれば、それを活かすのは俺たちの責任であり仕事なのである、という気持ちです。
「100点の振る舞い」病(自分自身の100点)
マネージャーになるとは「あなたが有能であることに、もう誰も興味が無い」ということに気づくことかなと思いました。
かつて強いプレーヤーであった人ほど、「こうあらねばならない」という気持ちは強いものです。アメフトの話。じつは同様に、かつて強いプレーヤーでなかった人も「これをやらねばならない」という強迫観念が付きまとうものです。これは自分の話。
今まではプレーヤーとして「自分が」成果を出し模範であることが評価されていた時とは、決定的にルールの違う競技に足を踏み入れたような感覚です。
これからは「集団活動の結果としてそこに生まれる成果」だけが評価されるのだと、諦めています。
誰かから、愛される必要も、慕われる必要も、尊敬される必要も、認められる必要も、すべてノイズであり、結果と成果だけが目的関数であるはずです。
「好かれたけど負けた」「自分は評価されたけどチームは負けた」では本末転倒です。「嫌われたけど勝った」「落合はいけ好かないが成果は出た」のほうが100倍うれしい。
成果にこだわる残酷と恍惚
したがって、自分が納得できる目標値・目的関数を持つことが極めて重要で、「嫌われたとて嬉しい」成果というものに明確な熱量が持てるかどうかが、自分にとって非常に重要な判断基準になっています。
そして、そんな成果にこだわる熱量こそ、チームを動かす原動力であり、チームメンバーの成長を心から願い渇望するDRYな根拠であり、数は少なくとも濃密な信頼を得る唯一の方法なのではないかと、自分は信じています。
雑感
- もっとドロドロした感情を乗せた文章が書きたい
- 去年もおーんなじようなこと言ってて人生が薄いんちゃうかという気持ち
- 心のミノキシジルが欲しい
- こぎれいな理屈ではなく、もっと醜悪な恥部をさらしたいんだにゃーん
- そういう感情をこそ書けばよかったじゃん... 来年に期待
今年もお疲れさまでした pyspa Advent Calendar 2024 - Adventar
WETな備忘録として