「言葉」とは、そもそも「個々人の持つ概念への参照」でしかない。面白いのは言葉自体でなく、個々人の持つ概念に差異があることで、言葉のすれ違いにその差異が如実に現れる。つまり言葉は「共通言語」としての役割以上に「個々人が持つ非共通概念の相違をあぶり出す」目的で使われてこそ面白いのだ
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
@otiai10 従って「元から言葉は絶対共通概念への参照である」と思ってる人との会話は、何の面白みも無く、彼にあるとすれば「概念相違への怨念」だけだ
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
@otiai10 仮に言葉が論理記号並みに「絶対的な共通概念への参照」であれば、議論の内で何か有用なものを発見することは難しいだろう。何故なら「有用なもの」とは得てして「当然と思っていることは当然ではない」という事実の発見であり、それは会話において「すれ違い」として露出するからだ
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
@otiai10 「言葉のすれ違い」を、議論における「ノイズ(不要な雑音)」と断ずるのは、極めてスジの悪い議論であり、少なくとも「今まで誰も提供していない価値」を提供できる組織にはなり得ないと思う
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
@otiai10 実践的で受け入れやすいメッセージにするなら「言葉とはすれ違うためにあるのだから、すれ違いこそ足を止めて、相違を同定すべきだ」となる。
まま、これは(特にビジネスの分野で)忌み嫌われる考え方でもある。「この言葉は共通概念ですよね?」という圧力が強い。
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
@otiai10 「擬似コモンセンス同調圧」というのがあって、その場においてコモンセンスとするのであれば「それは皆知っていることであり」「それはみな絶対的な共通概念を指す」という同調圧力である。前述の通りこれは馬鹿げていて、これを回避するソリューションは(ここで手記は途切れている
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 2
以降の展開をちゃんと考察すべきであるというのが僕の備忘録です。自戒
追記
@otiai10 なお、これは実は「国籍の違う言語」で特に面白さを発揮する。異なる自然言語で「当然1対1対応するであろうと思われている単語」の、実は意図する概念に差異があったとき、はじめてその両言語の「単語」について正しい認識が得られたことになる
— Hiromu OTIAI (@otiai10) 2015, 5月 3