さいしょに大枠
- 「素直になれ」としょっちゅう言われる
- 素直とは何か辞書でひいてみた
- 「覚えてません事件」
- 復唱するということは、復唱できるということ
- 誤解や曲解なく理解するためには?
- だから、素直とは「能力」なのだ
- ちょっとまとめ
- だから素直さはちやほやされる
- 従順であろうとは思わないが、素直であろうとは思う
- ちなみに
「素直になれ」としょっちゅう言われる
普通に生きていると、実に様々な場面で「素直になれ」「素直な人間が一番成長する」などと言われる。正直聞き飽きた。きっと多くの人が「素直とは結局何なのだ?」「具体的にはどういう振る舞いなのだ?」と疑問に持ったことがあるだろう。
僕も「素直になれ」と言われ、その都度いつも同じように思う。
「素直とは結局、言いなりになれということなのではないか?」
「素直とは結局、発言者の都合の良い振る舞いをしろということなのではないか?」
「それって従順じゃないの」
素直とは何か辞書でひいてみた
す‐なお〔‐なほ〕【素直】 [形動][文][ナリ] 1 ありのままで、飾り気のないさま。素朴。 「―なる山家(やまが)育ちのたのもしき所見えて」〈露伴・風流仏〉 2 性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさま。従順。「―な性格」「―に答える」 3 物の形などが、まっすぐで、ねじ曲がっていないさま。「―な髪の毛」 4 技芸などにくせのないさま。「―な字を書く」 5 物事が支障なく、すんなり進行するさま。 「餌食を―に与へざれば、痩せおとろへてぞありける」〈仮・伊曽保・下〉 [派生]すなおさ[名] 柔順(じゅうじゅん) 温順(おんじゅん)
従順が同義という時点で僕の怒りはそこそこ最高潮に達する。素直とは結局従順だったのかと。発言者の都合の良い振る舞いをしろということなのかと。胸くそが悪い。
「覚えてません事件」
そんな疑問を悶々と抱えたある日、ある事件が起きた。
僕は、大学をめっちゃ留年してたとき、「知的体育会系」とも言えるある私塾に行っていた。ちょっとその私塾の紹介をすると、この私塾は特許や発明といった知財についての学習と、実際に特許を取るということを目標(≠目的)にかなり高度な知的活動をしている集団である。特に京都にいる優れた学生で、大学のレベルなんてつまらん、ここにいても腐るわっ!!、って思ってる若者は、ぜひとも一度訪問してみることをオヌヌメする。そこでは僕は劣等生であまり良い成果を残せなかったのだが、この塾には、僕がアメフトをしていた10年間と匹敵するかそれ以上の大切な事を教えて頂いた。
閑話休題。
事件とは、その私塾での一場面で起きた。
ある日、ブレインストーミングのワークを経て、その後そのアイデアをカテゴライズして、傾向を分析するというくだりだったと思うが、(僕含め)塾生の出してくる成果物があまりに的を得ていなくてひどいものだったのだ。
しかし事件とはそこではない。この後に起きたことだ。
講師の楠浦さん(@kusukusu105)はいつものように一階層上のレイヤーの汎用性のある立場からこれをリファクタしようとし、厳しい指摘と問題点の抽出をして、ある学生に投げかけた。それに対し学生の反応は鈍く、発言は歯切れが悪い。なので、楠浦さんは「さっき俺がした指摘を復唱してみて」と言ったのだが、その学生はただ一言、
「....すみません、覚えてません」
と言ったのみだった。これが事件だった。
復唱するということは、復唱できるということ
これは実にイケテナイ。
「阿呆かと。だいたい見てきた多くのイケテナイ人達の多くは、言われた事もできない。言われた事もできないから、言われた事以上の事はもちろんできない。で、言われた事もできない人達の多くは、驚くべき事に、言われた事そのものを覚えてすらいないんや」
楠浦さんは、また、こう続けた、
「言われた事は、一字一句逃さず復唱できるようにしておかなあかん。最低限、一字一句違わず復唱できてようやく、言われた事を適切に理解できるかもしれない段階になる。よく言われる『自分の言葉で...』という理解は、結局、誤解や曲解に過ぎないんや」
そういう趣旨だったと思う。
誤解や曲解ではなく理解するためには?
この時僕はちょっと考え、そしてとても腑に落ちたのを覚えている。
上記のケースは「言葉」「言葉を理解する」「言葉を再現する」という具体的な事象ではあったが、その枠を超え、考えを上位で横にシフトするなら、「行動」「行動を理解する」「行動を再現できる」という分野でも同じ現象が言える事にはならまイカ。
「...ん、そうした場合って観察者にとってはいわゆる『素直』な振る舞いに見えるんじゃねww 」って思ったのだ。
この仮説の中では、オレオレな誤解や曲解ではなく、言われた事、進言された行動、その真意を理解するためには、一挙手一投足違わず再現できなければならないのだ。それ以外の振る舞いは、結局、誤解や曲解に過ぎないのだから。
でも同時にこう思います。
「...ん、しかしこれって結構難しくないか?www」って。
だから、素直とは「能力」なのだ
「言われた文言を一字一句違わず復唱する」ことが出来ない学生がいるのと同じように、「進言された行動を一挙手一投足違わず遂行できる」ことが出来ない人もいると思う。
これが出来るということが「言われた物事を正しく誤解無く理解すること」なのであれば、素直とは「進言された行動を一挙手一投足違わず遂行できる」という能力に他ならないのではないか?
そしてそれは「言われた文言を一字一句違わず復唱する」という能力が訓練によって出来るようになるのと同じように、「進言された行動を一挙手一投足違わず遂行できる」という能力も、訓練によって出来るようになると思われる。
先天的な性格や才能といった、そういう類いのものではない。
ちょっとまとめ
素直とは仮に「言われた物事を正しく誤解無く理解すること」なのであれば、
そのためには「進言された行動を一挙手一投足違わず遂行できる」必要がある。
これはかなり高度な能力である。
しかしこれは訓練によって習得可能な能力である。
またこれは、具体的な行動であるので、観測可能で測定可能である。
つまり素直とは、先天的な才能や性格のこと、ないし従順な態度といった抽象的で概念的なものではなく、ただの能力とそれに伴って観測される現象に過ぎない。
だから素直さはちやほやされる
「これ凄い能力だなwwww」と思った。だって「君はこれこれこうしたほうがいい」という進言を受けたときに、一挙手一投足違わない形で「それそれそうすることができる」のだから。そもそも言われた内容を理解し記憶し記録しそれを遂行するに十分な、読解力、注意力、洞察力、場合によってはコミュニケーション力や腕力や筋力すら必要かもしれない。
したがって、「素直な人間が重宝される」のは不自然なことではないのだなぁ、と思った。こんな能力の高い人間は、そういない。
100%再現することは不可能であったとしても、それを目指すことができる精神状態にあり、不完全と言えど進言された行動を再現しようとするのは、そもそも優秀な能力を持ってないと、そうそう出来ることではない。
従順であろうとは思わないが、素直であろうとは思う
僕は人の言う事を聞くのが大嫌いだ。ひねくれ者を自負している。
しかし上記の理屈で言うならば、「性格はひねくれ者であるが、素直さの能力はある」という現象が起こりうる。
仮に人の行動をその「考え方」と「遂行度合い」でマッピングするなら以下のようになるかもなー、っと思って書いてみた。
図1
ここで、世の中的な、多くの人が誤解し、多くの人が不満に思っている解釈は下の緑になる。
図2
だけど、上記の理屈のように、「素直とは性格でも才能でもない」とするなら、素直とは下の青になる。
図3
というところまで来て、これは余談だが、だいたい下のような構図があるのかなー、と思った。
図4
これで言うと、僕は「性格はひねくれているが、能力としては素直だ」というような状態「ひねくれ型」を目指したいなァ、と思った。(出世しないゾ!)
ちなみに
これは、以下の記事であたかも僕が「能力は才能だ」と発言したように書かれていたので、その指摘として書きました。僕は背景として「才能と能力の違い」にフォーカスしてこの記事を書いたので、下記の記事の本論とは全く違うので、反論というには見当違いです。だけど「素直は才能」というちょっとした表現が覚えが無いのと気に食わないので書きました。もし仮に「素直が(先天的な)才能」なのであったら、世の多くの若者はグレるしかなくなる。でも「素直とは才能や性格ではない」のだから、世の多くの若者は、不安無く「素直に」なるべきだ。「素直」を実現するほどの鍛錬を既に経験し「素直さ」を習得していれば、の話だが。