次は今より100分の1くらいの人数の会社にお世話になります。
お役に立てるよう頑張ります。
そして例のリストです。
気持ちなど、だいたいのことはこのエントリで書きました。くわしいことはここで金麦飲みながらワイワイやりましょう。
WET
朝起きてシャワーを浴びる。歯を磨いて家を出る。 僕だけじゃない、みんな今日も「働く」。 街行く人ひとり一人に「なんであなたは働くんですか?」と、 心の中で密かに問いかけている。 誰も答えてはくれない。
もちろんこれは、WETな備忘録として
生活の糧としての「働く」
実際にそんな疑問を聞いてくれそうな友人知人に聞いてみて、最も「早く」返ってくるのは「生活の糧として働いている」という答えだ。とうぜんながら僕たちは生き物である以上、何かを食べないと生きていけないし、風雨を防ぐ棲家が必要だ。そのようなものを手に入れるために、最低限のお金を稼ぐ必要がある。働くとはその手段。
働くとは手段であって、それ自体が面白いだの面白くないだのというのは二の次である。面白いだの面白くないだの関係無く、生きて行く以上は働かなければならないのだから、働くのだ。その代わり、仕事以外の時間で自分のやりたいことに時間と労力と、場合によっては金をつぎ込めばよいのである。
守るべき責任として「働く」
さらに、自分一人だけじゃなく、守るべき人がいたらどうだろうか。自分が金を稼がなければ、妻や子供が食べるものが無い、風雨を凌ぐ棲家が無い、となれば「働く」とはよりいっそう面白いだの面白くないだの言ってられない活動になるのではないだろうか。まあ僕独り身なんでこのへん全然分からないですけどね。
居場所として「働く」
とはいえ、働くという時間は1日の実に3分の1近くを占めている。睡眠時間をのぞけば半分と言ってよいだろう。そんな多くの部分を占める時間において、誰かに必要とされたり、多かれ少なかれ誰かに感謝される関係をつくり「生きていてもいいのだ」と実感を得るのは、とても重要なことである。
逆にこの時間を、誰にも必要とされなかったり、誰にも感謝されることが無いような過ごし方をしていると、きっと生きていくのが嫌になったり、少なくともその職場には居続けることが困難になったりするのだろう。したがって、やはり最低限生きていくために「働く」という時間は重要な要素である。
すこし昔話をば。
就職活動をしていた時は、「そんな生き方はゴメンだ」と思っていたような気がする。自分は自分の時間を切り売りして生活の糧に換金するようなことはふさわしくない人間だと思っていたし、自分の能力の可能性を信じて疑わなかった気がする。何でもできると思っていたし、どんな困難も頑張ればどうにかなると思っていた気がする。
ともすれば、上記のような働き方を馬鹿にしてさえいたと思う。
では、就活の時の僕が夢見ていた「働く」とは何だったのか。
楽しみとして「働く」
アニサマで知り合った人は、転職をして、自分の趣味であるところのアニメとか声優とかのコンテンツに関係ある仕事を今しているという。給料は微妙に減ったけれど、仕事そのものにとてもやりがいを感じていると言っていた。
「働く」というそのものが楽しさであってもよいと思う。その結果、なにか価値を生み出して、その分の対価を得るというのは、もしかしたら一番自然な働き方なのかもしれない。
ちなみにその人は既婚で子供もいる。
自己実現として「働く」
そして、意識高き若き日の僕をもっとも目輝かせたのは「夢や憧れを体現するために働く」というやつだったのであろう。こうあればよいという世の中の実現や、自分はこういうことができるはずだという可能性への挑戦など、「働く」ということが自己の実現そのものに直結している働き方。
ベンチャーの社長と偶然お会いしたりすると、そういう雰囲気は強く感じる。毎日は決してラクじゃないが、色々なことが詰まっているのだろうと、そうお察しする。
正直、疲れそうだな、とも思う。
たくさん足踏みをしていたせいもあって、「20代」という時間も気がついたらもうそんなに残されていない。どう働くべきか、という切迫感じみた焦りもある。自分はもっとパワフルに、仕事そのものにパッションを持って生きなければならないのではないか、若いし、とかとか。
けれど、3年近く働いてみて、正直言って僕は自信が無い。自分がどっちの価値観で働くのが向いている人間なのか、自信が無い。
仕事に行き、タスクを確認しコードを書き、あるコードは意味があったりまた無意味だったり、それを無心で繰り返す。仕事が終われば定時に退社し、趣味のプログラミングを存分に楽しみ、アニメを見て、休日はカフェに入り浸りやはり個人開発に没頭し。たまのイベントではサイリウムを振ったり、ダミ声で「世界1可愛いよー!!!」などとステージの上の17歳に声援を送る。
_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> たのしい ✌('ω'✌ )三✌('ω')✌三( ✌'ω')✌ <
 ̄^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^ Y ^  ̄
何か目的があるわけではないが、たしかにこのような生き方も、たのしいのだ。
そんなこんなで今では、自分が果たして「生きる目的として働いた方が合ってる」人間なのか、それとも「生きる手段として働いた方が合ってる」人間なのか、ちょっと自分で自信が無い。
というのが、3年目から見える、率直な「働く」という風景だ。
みたいな屁の役にも立ちそうにないことを薄ら薄ら思いつつ寝落ちをすれば、朝が来る。
僕だけじゃない、みんな今日も「働く」。
そう、あの合言葉とともに
それではみなさんご一緒に
という小説の書き出しを思いついたので誰か使ってやって下さい
これを読んで、自分は違うと思った。
もっと激しく言えば、自分のしてきた"体育会"がひどく貶められた気持ちになった。
すべてアメリカンフットボールで学んだ。たいていは、大きな失敗で痛みを伴って学んだ。
アメフトはフィールドに同時に入れる人数は11人だがベンチに入れるのは99人であり、ポジションの多様性と格闘技的な要素、特徴ある試合時間制度から来る極端な戦略性などの理由により、極めて多くの人間が関わるスポーツである。
たとえばオフェンスだけでも、体重100kgを超えるプレイヤーは10人以上いないとリーグ戦を勝ち続けるのは厳しい。かと思えば体重70kgそこそこのスプリンタータイプのプレイヤーも20人以上必要だ。また、コンタクトスポーツゆえ怪我が多く、メディカルスタッフも必須だし、一試合で百を超えるプレーパターンを分析するスタッフの存在も結果を左右する。アメフトにおける「スタッフ」とは、いわゆる「体育会」の「女子マネ」とは全く異なる。
大学でプレイし、縁あって高校でコーチをし、さらに縁あって別の大学のコーチも経験したが、実に多くのひとが実に多くの価値観で従事していることを、身にしみて体感した。時には人を萎縮させたり傷つけたり、誰かをチームから去らせてしまったり、自分がチームから追放されることもあった。
上記のように様々な価値観でひとは何かに従事するが、その最たるものが「プライド」であることも、僕はアメフトで学んだ。
我々日本人がプライドというカタカナ英語を使うとき、それに対応する日本語は実はふたつある。
そのひとつが「自尊心」である。多くの人が「プライド」とは「自尊心」の意味で使っている。
僕がコーチをしていた大学は当時学生2部のチームで、他チームの動向的にも自チームの戦力的にも1部昇格が十分に可能な状況にあった。当然僕は「勝って1部昇格を果たす」ことが至上目的であり、そのようなコンセンサスが形成するようつとめ、実際形成されていたと考えていた。「目的を果たすため」に必要な練習内容・チームルール・アサインメントを考え、それを伝え実行を補助するようにした。
しかし、ある者は静かに辞め、ある者は突如反発したりした。結果、僕たちは目的を達成できなかった。なぜなら、彼らの「プライド」は満たされていなかったからだ。おそらく、あの状況でチームメンバーひとりひとりの「プライド」を満たし、あとほんの少しの助言をするだけで、彼らのポテンシャルなら難なく目的は達成できていたであろう、と今では思う。
ビジネスにおいてこれと似た現象がある。
マネジメントするときは、その子が転職したいときに、転職しやすい経験とスキルを身につけさせてあげることを心がけてます。それが結局一番成長する。 / “優秀な人材がすぐに辞めてしまう本当の理由とその対策 : ライフハッカー[日本版]” http://t.co/aI5v7WYuDf
— 園野 淳一 (@hachimitu) 2013, 12月 30
目的達成のために必要なのは、目的達成のためのスキルアップを計画するよりも、チームメンバーの「プライド」を満たそうとするモチベーションを尊重し促すことのほうが近道だったりする、というパラドックスである。
したがって、チームメンバーひとりひとりが何をもってよしとするかは多種多様である。
にもかかわらず、僕は「強制」されたこともあるし「強制」したこともある。そうすることができる条件が整っているときが、まれにある。それは、人数が少ない組織で、嘘のほとんどないコンセンサスが形成されている場合だ。
ビジネス、というかいわゆる企業においてそのような条件が整うことはほとんど無いだろう。何かしらしがらみがあったり、体面を整えなければならない場面が多すぎる。ごくごく人数が少なく、モチベーションの多様化が進んでいない状態、たとえば起業間もない状態とかならこれが可能かもしれない。
今、ある2人の間で嘘の無いコンセンサスを形成するコストをpとすると、組織全体で嘘の無いコンセンサスを形成する全体コストPは、人数増加の2乗のオーダーで増加していくことが容易に計算できる。
仮に純粋な2-by-1のピラミッドを構築していったとしても、nの1乗のオーダー(係数は1より大きい)で増加する。(ピラミッドの階層をkとしたとき、全メンバー数がn = k(k-1)/2であり、架橋の数は3Σk =3n(n-1)/2)
つまり事業が大きくなり組織は大きくなるほどに、単一で同質なモチベーションのありかたやフィロソフィー、目的意識などを嘘無く共有することは現実的に不可能となっていき、組織のパフォーマンスを上げるためには、コンセンサスを頼った強制指示よりも、各人の「プライド」を満たそうとするモチベーションを促すマネジメントにシフトしていくべきである。
特に僕の大学はアメフトをするような学生を確保するのが難しく、そのような環境で「本気で」目的達成を狙うのであれば、勧誘活動に力を入れることが結果目的達成に近道である。ここまでは普通のはなし。
最近では、そもそもアメフトをしている人間(ビジネスで言うところの市場に近い)を増やすために、アメフトそのものの競技人口を増やすことや、試合への観客動員数を増やすことが、自チームやアメフトの認知度を上げ、目的達成に寄与するというところまで、アメフトは発達している。
したがって、当然勝ち負けはあるが、パイを増やすために(マネージャレイヤーでは)各地の高校と合同練習をしたり、敵チームと興行的な打ち合わせを重ねたりすることは、ごくごく当たり前の取り組みなのである。
「何勝するか、何位に入るか」といった目的を突き詰めれば突き詰めるほど、こだわるべき本質が「相手を蹴落とすこと」以外にあることが浮き彫りになっていくのが、スポーツの醍醐味でもあると思っている。
「過度に取り組んだ体育会系は、会社とめっちゃ似てる」と、あえて言いたい。
さいごに。
体育会経験者は、「不条理に耐えた」「不条理に対する耐性がついた」ということについては、胸を張ればいい。
冒頭で紹介したブログの筆者はこのように言っているが、僕は「不条理に耐えた」経験など無い。
「体育会経験者」と言うとひとくくりに感じるかもしれないが、そこにはそれこそ誰も知らない経験をおのおのがしていると思う。そして僕は、その中でも恵まれてた環境で「体育会」をしていた。
僕は「不条理に耐えた」という覚えは無い。
全ての艱難辛苦は目的達成のため合理的に必要なものだったし、全ての問題について自分が寄与できる余地が無いものは無かった。不条理に先輩やOBから何かを強制されたことも無かった。というか敵は常に自分だった。(ある意味、そこまで洗脳されるのが本当の意味で「体育会系」なのかもしれないw)
これが僕の「プライド」、「自尊心」じゃないほうのプライド、「矜持」だ。
「不条理に耐えた」といって胸を張るのは、せいぜい不条理が跋扈する程度の本気度でしか取り組んで無かったわけであって、そういった人と同じように「体育会経験者ですよね」と言われるのは、いささか悲しい気持ちになる。
恒例ですが、最後に、尊敬する関学アメフト部の部訓にもなっている(とかいないとか)という、ドイツの哲学者の言葉を添えておきます。
自戒を込めて
WET
文章を書くときにどうやれば伝わりやすいかいつも悩む。どんなことに悩んで、それをどう解決しようとしているか、毎回忘れるのもアレなのでつらつらと備忘録しておくことにした。
もくじ
まず書き出しです。
どうしても「僕が主張したいことはこれです!」っていう具体的内容を先に書いちゃいたくなる。しかし読者は「いきなり何なの?お前呼んでねえし」ってなることが多い。
例1
A「コショウ入れるといいよ」
B「え?」
だから僕は、まず読者に自分の痛みを理解してもらうところから書き始めるようにしている。「僕はこれに困ってます」「僕はこれに悩んでます」「僕はこういうときこれが分からないです」といった具合だ。上の例なら、たとえばこのように
例2
A「このラーメンいまいちパンチが足らんよね...」
B「そうだよねー」
A「コショウ入れるといいよ」
B「なるほど?」
もしこの前処理をすっ飛ばすと二つの問題が発生する。ひとつは
ということ。もうひとつがわりと重要で
上記の例で言うと「ラーメンにパンチが足らない」と「思ってない人」に「コショウの有用性」を説いてもしょうがなく、逆に「難解な主張だった...」という感想だけ残ってしまう。こういう人は冒頭の数行で「お引き取り願った」ほうが、むしろ文章は伝わりやすくなる、と僕は思っている。
だからまず、自分が何に困っているか(ないし、あなたもこれ困ることあるでしょ?)から書き始めると伝わりやすいのではないか。
僕の大学の恩師が僕に言った言葉があり、常々それを心がけようとしている。
「落合くん、聴衆は常に目隠しをしてると思ったほうがいいよ。このプレゼンテーションがいったいあと何分で終わるのか、今は気を抜いていいタイミングなのか、並列に並べられた要素があといくつ続くのか、次に来る話は因果関係なのか具体例なのか、聴衆はそういったことを全く知らない。この状態で君の話を聞き続けるのは、目隠しをした状態で曲がりくねった綱渡りをしているようなものさ。特に君は暗喩や論の跳躍が多いから、聴衆はたいへんに困ってしまう」
「だからね、落合くん。君はプレゼンテーションをするとき、まず地図を見せ、目隠しを取ってもらい、一緒に地図を指でなぞるように話をしたほうがいい。たとえばこのプレゼンテーションの中に君の主張がいくつあるのか、どんな種類の段落がいつ現れるのか、最初に紹介するんだ。そして、最初に渡した地図を聴衆と一緒に指差しながら進んで、今何の話をしているかを明らかにし続けるんだ」
だから、なるべく「もくじ」があるとよい。そして「もくじにおける何番目なのか」を明示したほうがいい。
「伝わりにくい文章」の多くは「何を言っているのか分からない」であり、「何を言っているのか分からない」のほとんどは「言っていることが頓珍漢である」という場合よりもむしろ「たくさんのことを言い過ぎである」に尽きる、と僕は思っている。
これを防ぐ作文法に、「言いたいことを1センテンスで先に書く」というのがある。
例1
「ロミオとジュリエットは恋仲である」
「しかし両家は犬猿の仲である」
「なんとかして添い遂げようとする」
「すれ違って結局どっちも死ぬ」
例2
「PHPは糞だ」
「シンタックスが糞だ」
「速度が糞だ」
「標準ファンクションが糞だ」
「動的型付が糞だ」
「したがって糞だ」
このとき以下のことに気をつけている
これを実践するために以下のアプローチをとることが多い
これだけなので、300字も書いてないと思うけれど、骨子はすでにできあがっていなければならない。そうでなければ、どこかに「詰め込み過ぎ」なのだと思う。
で、「意味不明なら容赦なく捨てる」である。
誰しも経験があると思うけれど、主張したいこと説明したいことがある状態で書いた文章は多少なりとも興奮状態と言っていい。これ自体は全く悪いことではなく、むしろ良いことだ。興奮状態だからこそ結びついた出来事や、自分でも気付かなかった感情などが、浮き彫りになる良い機会だ。
そして誰しもが経験あると思うけれど、そうして書いた文章は誰にも伝わらないことを知る。
なぜだろうか。それは「自分だけが分かる暗喩」や「自分だけが知ってる背景」などを余すところ無く動員して書いた文章だからだ。したがって、興奮状態で書いた文章は自分には理路整然で素晴らしいアイデアに見えるのだが、暗喩や背景を知らない人間にとってみるとポエムでしかない。
例
「クラムボンは死んでしまった」
本来なら、気心の知れた友人に読んでもらい「ここ意味わかんない」「これ何?いきなり出てきたんだけど」「指示語が多くね?」などと指摘してもらうのが一番なのだが、自分でやるなら「一晩寝かせる」ことを心がけている。
そして翌朝の何もかも忘れたスッキリとした気持ちで文章を読み「ここ意味わかんない」「これ何?いきなり出てきたんだけど」「指示語多くね?」などと自分の文章をdisり、少しでも分かりにくい場合は「実践1」まで立ち返って書き直すべきだと、僕は思っている。
まとめると、
なのだけれど、実は、とりわけ最初のふたつはプレゼンテーションのテクニックであり、いわゆる「エレベーターピッチ」と言われる技術である。3000字くらいの文章であれば、プレゼンテーションともライトニングトークともピッチとも、だいたい本質的には一緒なんじゃないかな、と思っております。
(ちなみにこのエントリは急ぎだったので一晩寝かせてないw)
あくまで、個人的な備忘録として。
WET
WETな備忘録として
艦これウィジェットのBANに対する見解 - WETな備忘録 http://t.co/R6wmSdOOeE
書きました
#艦これウィジェット
— アテナ・グローリィ (@otiai10) July 1, 2014
2014/06/29に実施したときの断捨離のルール
大原則
もうちょっと具体的に
tips
雑感
本日の成果
#断捨離 pic.twitter.com/of5IMPdrI1
— ガガントス! (@otiai10) 2014, 6月 29
なんか最近やけに徳が高いな、僕...
WET