ストックはフローに、そしてフローをストックに ⊂( ^ω^)⊃
2013年も残すところ1ヶ月を切った。
2012冬コミがつい最近に感じられる。
今日までの1年、今日からの1年
「これからの」1年で何ができるかと聞かれれば、何でもできる気がする。 しかし「この」1年で何をしたかと聞かれれば、何もしていないような気がする。
これからの1年の目標は大きく設定し自分に期待するくせに、この1年を見返すとその1ミリだって達成していない自分を見つけ、愕然とする。「この」1年も「これからの」1年も「同じ365日間」であるという真実が嘘みたいな、僕にとっての事実だ。
365日後も僕は生きているか
「1年後に考えうる、おちあい君にとっての最高の状態は何か?」と酒を飲みながら先輩に問われた。356日後に僕は一体何処に居て、誰といて、何をしていて、一体どんなスピードで生きているのだろうか。どういう生き方をしているのが最高の状態なのだろうか。「井口裕香の主夫ないし戸松遥の式神になっているのが考えうる最高の状態ですね」と答えた覚えがあるんですが。
しかしその問いは同時にもうひとつの可能性を考えるきっかけにもなる。「1年後に考えうる、僕にとって最悪の状態とは何だろうか?」ということだ。
果たして僕は生きているだろうか。365日には死んでいる可能性もゼロではない。ゼロではない。
ストックはフローに
この365日間、僕は大事に溜め込んだものが色々たくさんある。特に僕は「本」だ。人によってはそれは「金」かもしれない。「土地」と言うひともいるかもしれない。ものが増えたというだけで言えば「服」と答えるひとも居るかもしれない。「家」「車」という人もいるかもしれない。
溜め込むべき「もの」があることが一体どれだけの幸福を提供しているのか、僕は実はあまりよく分からない。むしろ「本」が手元にあること「金」が手元にあること「服」が手元にあること、その他もろもろ、「手元にある」ことによって享受している「ストレス」の方が多い気がしているよ。
物を持つことがストレスになるなんてとんだ笑い話ではあるが、笑えないことのような気もする。それでは元も子もない。特に本こそ、読んでこそ価値を発揮するものであるし、他の「服」や「家」「車」、「金」についても、それが価値を発揮するのは決して所持している時間ではなく、正しく使用した瞬間だと思うので、だからまあ溜め込んでいるものはその価値を発揮させるのが正しい所持(使用)のあり方だと思う訳ですハイ。
有形の財産なぞ溜め込まず、今日読んで、無形の財産に消化しつつ、明日発揮するのがよいと思うのです。ハイ。
ということで「物は持たない」「無形にできるものは無形にする」「ストックはフローに」をいつも心がけているつもりです。
「時間」
そんなことより言いたい事はこっちである。
あらゆる有形の財産よりも、全ての人に物理的に平等に与えられている財産がある。それが時間だ。(人の自由というものが他の誰かに与えられるものではないとするならば)365×24時間、あらゆる人に平等に与えられている。
「時間」という財産が全ての人に平等に与えられているという事実は、多くのひとに指摘されている。
しかし「時間」という財産が持つ、もう一つの特徴は忘れられがちである。
それは、「時間」という財産が「十分かつ潤沢に与えられている」という特徴である。
それは、「時間」という財産が「十分かつ潤沢に与えられている」という特徴である。
だいじなことなのでにかいいいました。
そしてフローをストックに
「時間」は実は「潤沢に」与えられてる。その事実を見落としているがゆえに冒頭に紹介したような「この」1年と「これからの」1年に対する認識の差異が発生しているような気がする。
言わずもがな1年は365日で定義されている。ここで、1日1時間でもいいから時間を確保したらどうなるだろう。驚く事に、1日1時間確保すると、1年では365時間になる(!)。もしこれが2時間なら1年では730時間になる。1日2時間45分なら実に1000時間に及ぶ(びっくりである)。
たしかに「暇な時間2時間45分確保するのでござる〜」というのは無理があるが、毎日僕たちは仕事に何時間使っているか、ふと立ち止まって考えたい。僕たちは1日8時間近く仕事に費やしている。毎日8時間と仮想するなら、1年では3000時間近い。
この3000時間を、蛇口をひねるように流していていいのだろうか。この3000時間を労働力というフローにしていていいのだろうか。どうせなら、この3000時間を可視化して、有形の財産に昇華しつつ、1年間積み重ねることができれば、一体どれだけの高さになるだろうか。
つまり、どうにかして毎日蛇口から垂れ流している時間を、少しでも有形な(流れて行かない・定着する)何かに昇華したい。たとえば業務で慣れた分野の資格を取ってみたり、使用している技術分野で別途実績を出してみたり。とにかく、蛇口から垂れ流している3000時間を「金」にするだけではなく、少しの澱でもよいので積もる何かにしていきたい。
365枚の薄皮を重ね続ける強さが欲しい
「これからの」1年で何ができるかと聞かれれば、何でもできるような気がするのは、365という数字、365回というその繰り返しが、途方も無くたくさんの繰り返しであるかのように見えるからじゃないだろうか。
そして、「この」1年で何をしたかと聞かれれば、何もしていないような気がするのは、僕がその365回だけ、皮肉にも一生懸命、蛇口から時間を垂れ流したからなのだと今では思う。
「365回の繰り返し」はいかにも地味で単調で、変化に乏しい平坦な道ではあるが、実はこの繰り返しこそが万人に与えられた最も希望に溢れ強力な方法論だったかもしれない。
「これからの」1年が「この」1年のように薄っぺらで無意味なものにならないためには、今日、そして明日も、絶やさずに、毎日毎日その薄っぺらい皮一枚一枚を重ね続けるべきであり、
それこそが、それだけが、明日突然に何かを起こすことができない僕たちにとって、唯一許された「全速力」のような気がしている。
なんちゃって。
ちなみに
井口のケツは柔らかい、とのこと。よいと思います。
WETな備忘録として