地球上の人間が「幸せ」と言うとき、実は二通りしかなくて
- 隣人よりも幸せである
- 昨日よりも幸せになれる
じゃないかな、と思う。したがって多くのひとは「自分が幸せだ」とは思っておらず、もっと、隣人より、と望み続けている。
嫉妬
最近地球上で起きている「戦い」は、基本的には「隣人より幸せになりたい」、あるいは「隣人より幸せではないことを知った」ことにより起きているんではないかなと思う。地球上で「隣人」と幸せの比べっこを可能にしたのは、よく言われるように、インターネットではないだろうか。インターネットのおかげで、世界は狭くなった。前世紀なら知りえなかった「隣人」が、パソコンの中でワンクリックで覗けるようになった。彼らが何を食べ、何に笑い、何に悲しむ生活をしているか、簡単に知れる。皮肉なことにインターネット(とそのメディアとしての自己顕示欲との相性のよさ)は、世界をオープンにしたが、フレンドリーにはできなかった。世界をオープンにした結果、人々はワンクリックで、妬みや嫉みを量産できるようになった。
幸せとは「隣人より幸せ」を意味するのであれば、地球上に仮に「完璧な平等」が実現したとしても、それは「全員の幸せ」の実現にはなりえない。地球上の「幸せ」の総和を最大にするためには、常に地球上の誰かは「不幸せ」でなければならないのである。これは仮説ではあるけれど、でも、わりと洒落にならない真実のような気がしている。
枯渇
しかし僕らは、隣人より幸せでなくても、幸せであると感じる瞬間があるんじゃないかとも思う。「もっと幸せになれる」と信じているときだ。隣人より不味い飯を食っても、毎日しんどくても、もっと幸せになれるという希望があるなら、頑張れて、頑張れるというのは汗を流すように「幸福感」のある瞬間ではなかろうか。個人的な性癖なのかも。
宗教問題や、南北問題など、地球上に「完璧な平等」が実現されるのはまだまだずっと先の話だとは思う。だけど、もしそれが実現してしまったら、その日から僕らは何をして幸せを感じればいいんだろうか。隣人から財産を奪うしかないというのだろうか。地球文明が宗教問題も南北問題も乗り越えたとすれば、きっと地球の資源は開発・発明・管理されきっており、僕たち(まあ俺は死んでるだろうけど)は「もっと幸せになれる」という希望は持てないだろう。
すくなくとも、地球上ではな。
希望
地球上に「幸せを生む格差」が消滅し、「もっと幸せになれる目算」が無くなったとき、隣人を殺す以外の希望を、僕たちは後世に残さねばならない、と最近強く考える。きっとそういう世界が訪れるのは、僕が死んでからかなり経ってからのことだろうけれど、今始めないと間に合わないこともあるんではないか?穴の空いた船の水かきだけをし続けていては、全員沈むしかないんではないか?
来る日の地球上の人間が「幸せ」を考えるとき、実は二通りしかなくて
自分の「幸せ」
生きる以上は僕も「幸せ」でありたい。そう思ったとき、僕自身も、何かに希望を持って、僕やその子孫が「もっと幸せになれる」世界を残したいなと思うようになった。そういうもののために生きて、道半ばであっても、1区間でもいい、バトンを受け取り、次に渡すような仕事をして死んでいければ、意外と本望なのではないかな、と。
意外と、そういうのが僕の幸せなのかもしれないな、と考えるようになりました。
(ぜひ合わせて読んでほしいやつ→地球葬送曲 〜人類はガイアの癌か〜 - WETな備忘録)
WETな備忘録として